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ギリシャの哲学者たち
ラファエロ・サンティ『アテナイの学堂』(1510-11、フレスコ)
枢軸時代(すうじくじだい、ドイツ語: Achsenzeit、英語: Axial Age)とは、ドイツの哲学者であり、精神科医でもあったカール・ヤスパース(1883年?1969年)[注釈 1] が唱えた紀元前500年頃に(広く年代幅をとれば紀元前800年頃から紀元前200年にかけて[注釈 2])おこった世界史的、文明史的な一大エポックのことである。枢軸時代の他に「軸の時代[1]」という訳語があてられることもある。
この時代、中国では諸子百家が活躍し、インドではウパニシャッド哲学や仏教、ジャイナ教が成立して、イランではザラスシュトラ(ツァラトストラ、ゾロアスター)が独自の世界観を説き、パレスティナではイザヤ、エレミヤなどの預言者があらわれ、ギリシャでは詩聖ホメーロスや三大哲学者のソクラテス・プラトン・アリストテレスらが輩出して、後世の諸哲学、諸宗教の源流となった。
なお、枢軸時代とは「世界史の軸となる時代」[注釈 3] という意味であり、ヤスパース自身の唱えた「世界史の図式」の第3段階にあたり、先哲と呼ばれる人びとがあらわれて人類が精神的に覚醒した時代、「精神化」と称するにふさわしい変革の起こった時代[2]ととらえられる。
本項では、ヤスパースによって「枢軸時代」と命名され、互いに影響を受けることはなかったものの、異なる場所でほぼ同時代に展開された数世紀の思想史を取り上げ、その世界史における位置づけについて概略を述べる。 カール・ヤスパースは、1949年に『歴史の起原と目標』(Vom Ursprung und Ziel der Geschichte) を刊行して自らの歴史観を述べ、あわせて歴史の将来と歴史の意味について語っており[注釈 4]、「第1部 世界史/ 第1章 枢軸時代」では、紀元前500年頃を中心とする前後300年の幅をもつ時代を「枢軸時代」と称して、その輪郭を叙述して読者に注意を呼びかけている[3]。 この時代には、驚くべき事件が集中的に起こった。シナでは孔子と老子が生まれ、シナ哲学のあらゆる方向が発生し、墨子や荘子や列子や、そのほか無数の人びとが思索した、?インドではウパニシャットが発生し、仏陀が生まれ、懐疑論、唯物論、詭弁術や虚無主義に至るまでのあらゆる哲学的可能性が、シナと同様展開されたのである、?イランではゾロアスターが善と悪との闘争という挑戦的な世界像を説いた、?パレスチナでは、エリアから、イザヤおよびエレミアをへて、第二イザヤに至る予言者たちが出現した、?ギリシャでは、ホメロスや哲学者たち?パルメニデス、ヘラクレイトス、プラトン?更に悲劇詩人たちや、トゥキュディデスおよびアルキメデスが現われた。以上の名前によって輪廓が漠然とながら示されるいっさいが、シナ、インドおよび西洋において、どれもが相互に知り合うことなく、ほぼ同時的にこの数世紀間のうちに発生したのである。 ヤスパースはこのように述べて、この時期には東西にすぐれた思想家が輩出し、その特徴は、「自己の限界を自覚的に把握すると同時に、人間は自己の最高目標を定め」[4]、人びとが「人間いかに生きるべきか」を考えるようになった点にあり、これらの思想は、のちのあらゆる人類の思想の根源となったことを指摘している。 なお、この観点に着目したのはヤスパースが最初ではなかったことをヤスパース自身が『歴史の起原と目標』で述べている。それによれば、1856年にラソー
「枢軸時代」とは
ただし、紀元前500年を中心とするこの思想史上の画期は、ヤスパースによれば19世紀後半以来、話題にされることはあっても本格的に論じられたことはなかった。同時的に展開されたこの文化的平行現象を問題とし、なぜ、このような時代が生まれたかを歴史学的に解明しようとした者はヤスパース以前にはついに現れなかったのである[5][注釈 5]。 ヤスパースによれば、彼の歴史観は、人類はひとつの起源とひとつの目標をもつという信念(「根本的信仰」)にささえられていた。これは、知識によって確実に知られるものではなく、漠然とした多義的な象徴によって感得せられるにすぎない。人間はどこから来てどこへ行くのか??そのことについてヤスパースは、実証的研究ではなく、哲学的な自覚を通して近づこうとした。歴史のなかの人間は、いわば起源と目標のあいだの過渡的な存在なのであり、起源と目標についてわれわれは何も知らないのである。 人類史をひとつの起源とひとつの目標の間の存在とみるヤスパースの歴史観は、アダムを人類の始祖として、世の終わりには「最後の審判」があって人類は神により裁かれて「永遠の霊の国」にまみえるというキリスト教の終末史観を連想させる。事実、ヤスパース自身も、自らの歴史観を語る際には、キリスト教神学におけるこの歴史観に言及している。しかし、ヤスパースによれば、そこで語られるアダムや霊の国は、あくまでも象徴的表現として提示されているのであり、現実の歴史的過程の反映ではない。ヤスパースは、キリスト教での啓示を超越者によるひとつの暗号形態とみているが、キリスト教的終末史観も同様に歴史そのもののあり方を告げる暗号形態のひとつとして把握するのである[6]。 キリスト教信仰は必ずしも全人類の信仰ではない。「人間はどこから来てどこへ行くのか」を全人類を対象に考えていくためには、より広い歴史観に立たなければならない。ヤスパースが「枢軸時代」を提唱した理由のひとつもそこにあった。そしてまた、中国、インド、西洋で互いに他を知ることなく生じた文化的平行現象の謎は実証的研究によっては解明できない性質のものであるからこそ「謎」であり、平行現象の必然性を完全には立証できないからこそ偶然にみえる。とはいえ、この時代を設定することによって、ここを軸としてその前後にわたる人類全体の世界史の解明が可能になるとヤスパースは主張する。単に人間の精神上特筆すべき時代だというだけでなく、こうした視点からも「枢軸時代」設定の意義があると考えられた。 紀元前11世紀、殷が滅び周王朝が中原の地を支配した。周の社会制度は封建制度を基本とするものであり、そこでは「礼」と呼ばれる身分秩序が最高の徳として重んじられた。しかし、紀元前8世紀になると異民族が侵入し、封建制度が崩壊して都は鎬京から洛邑に遷された。こののち中国は春秋戦国時代という単一の強力な政治権力のない時代がつづくこととなり、「春秋の五覇」ないし「戦国の七雄」とよばれた諸侯は富国強兵のための新しい考え方を求めた。そこで、この新しい時代の要請にこたえて、各地で活発な思想活動が展開されて、中国思想史上の黄金時代と称されるに至った。「諸子百家」[注釈 6](下表)とよばれた思想家たちによる活動がそれである。孔子 学派おもな思想家活躍した場所思想内容・特色主著・言行録
ヤスパースの歴史観
それぞれの「枢軸時代」
中国における「枢軸時代」
儒家孔子(BC551??BC479)魯など仁と礼『論語』『春秋』
曾子(BC506???魯孝道『孝経』