林 雄二郎(はやし ゆうじろう、1916年(大正5年)7月27日 - 2011年(平成23年)11月29日)は、日本の官僚、未来学者、財団運営者。 東京生まれ。1940年に東京工業大学電気化学科卒。1942年に技術院に入職後、戦後は経済安定本部、経済企画庁で長期計画に関わる。同庁在籍時の1959-1960年にフランス留学。 帰国後の1965年に、同じ経済企画庁・当時総合開発局の下河辺淳(のち東京海上研究所理事長)、同じく当時総合計画局の宮崎勇(のち経済企画庁長官、大和総研特別顧問)らと共に「1985年の日本人のライフスタイルを検討する会議」を通じ、各界に大きな影響を与え、「林リポート」をまとめ提言し、日本社会を変化・発展させるためのガイドラインとなった。1967年、東京工業大学に社会工学科が新設される際に教授に就任。 1969年、在籍していた経済企画庁時代、情報化社会を予見した『情報化社会』[1]を発刊。本書の発行により、情報化社会という言葉が社会的に認知されることになった。また、同著は著者が大阪万博の仕事の帰りの新幹線の中でテープレコーダーに吹き込んだものを起こしたものを基本として作成したものである。当時、林雄二郎は京都の梅棹忠夫、小松左京、加藤秀俊、川添登らと「貝食う会」というグループを結成し、未来学について議論を重ねていた。 1971年、財団法人未来工学研究所所長を経て、1974年10月15日にトヨタ自動車が自動車事業創業40周年を記念したトヨタ財団を設立するのと同時に、専務理事に就任し13年間務めた。就任時、同財団理事長の豊田英二より、「自分はよくわからないから任せるよ」と言われ、財団業務を全て任される。人事も自由に任され、リベラルで専門意識の強い山岡義典らをプログラムオフィサーとして連れてくる。日本の財団業務の礎を築く。 1988年より東京情報大学初代総長を1994年まで務め、1994年に日本財団の顧問に就任。現在でも同財団の活動理念・指針となる「フィランソロピー実践のための七つの鍵」を作成。他には日本フィランソロピー協会前会長、日本未来学会会長なども務めていた。
来歴・人物
2011年11月29日、老衰により死去[2]。95歳没。
家族・親族
兄 林健太郎(東京大学元総長)
甥 林洋太郎