はやし せいのすけ
林 誠之助
1930年の写真、満23歳。
本名久保 十郎 (くぼ じゅうろう)
生年月日1907年3月
没年月日1988年12月9日
出生地 日本 佐賀県杵島郡橘村(現在の同県武雄市橘町
林 誠之助(はやし せいのすけ、1907年3月 - 1988年12月9日)は、日本の俳優である[1][2][3][4]。本名久保 十郎(くぼ じゅうろう)[1]。引退後、実業家となった[1]。
人物・来歴)に生まれる[1]。
旧制・佐賀県立鹿島中学校(現在の佐賀県立鹿島高等学校)に進学するも、1923年(大正12年)に中途退学し、二代目市川荒太郎に入門して歌舞伎役者となる[1]。翌1924年(大正13年)、師の荒太郎とともに京都の松竹下加茂撮影所に入社、師の主演映画[5]に「林 誠之助」の名で助演して、映画界にデビューする[1]。同年末、師の荒太郎は同撮影所を退社、それを機に、林は松竹キネマに残留し、東京の松竹蒲田撮影所に異動する[1][2]。1927年(昭和2年)6月、同社を退社、同年9月には、京都のマキノ・プロダクションに入社する[1]。
1928年(昭和3年)4月、マキノを退社して日本映画プロダクション連盟に参加、同年5月10日、片岡千恵蔵が創立した片岡千恵蔵プロダクションの設立に参加、同社第1回作品『天下太平記』以降、1937年(昭和12年)に同プロダクションが解散するまで、ほとんどの作品に出演し、脇を固めた[1][2]。同年、片岡千恵蔵とともに、日活京都撮影所に入社する[1][2]。1939年(昭和14年)11月1日に公開された菅沼完二監督の『股旅日本晴れ』以降の出演歴が見当たらない[2][3][4]。
第二次世界大戦中に俳優業を廃業した[1]。実業界に転身し、地元・御船山近辺で成功を収めたという[1]。没年不詳。
日本映画データベースにおいて、同時期に活動した俳優の林誠太郎との混同がみられる[2][4][6]。 すべてクレジットは「出演」である[2][3][4]。公開日の右側には役名[2][3][4]、および東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)所蔵等の上映用プリントの現存状況についても記す[7]。同センター等に所蔵されていないものは、とくに1940年代以前の作品についてはほぼ現存しないフィルムである。 すべて製作は「マキノプロダクション御室撮影所」、配給は「マキノ・プロダクション」である[2][3]。すべてサイレント映画である[2][3]。 特筆以外すべて製作は「片岡千恵蔵プロダクション」であり、配給は時期によって異なり「自主配給」「日活」「日本映画配給
フィルモグラフィ
松竹蒲田撮影所』 : 監督斎藤寅次郎、1926年5月25日公開 - 早川左内
『高田の馬場
『白虎隊』 : 監督野村芳亭、1927年6月26日公開 - 間諜B
マキノ・プロダクション
『ひよどり草紙 第一篇』 : 監督人見吉之助、1928年1月10日公開 - 為永陣太郎
『ひよどり草紙 第二篇』 : 監督人見吉之助、1928年3月8日公開 - 為永陣太郎
『女心紅椿
『ひよどり草紙 第三篇』 : 監督人見吉之助、1928年3月28日公開 - 為永陣太郎
『ひよどり草紙 第四篇』 : 監督人見吉之助、1928年4月9日公開 - 為永陣太郎
『ひよどり草紙 第五篇』 : 監督人見吉之助、1928年4月22日公開 - 為永陣太郎
片岡千恵蔵プロダクション