林羅山
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「林羅山像」[注釈 1]

林 羅山(はやし らざん、天正11年(1583年) - 明暦3年1月23日1657年3月7日))は、江戸時代初期の朱子学儒学者林家の祖。羅山はで、は信勝(のぶかつ)。は子信。通称は又三郎。出家した後の号、道春(どうしゅん)の名でも知られる[注釈 2]
生涯

天正11年(1583年)、京都四条新町において生まれたが、ほどなく伯父のもとに養子に出された。父は加賀国郷士の末裔で浪人だったと伝わる[2]。幼少の頃から秀才として謳われ、文禄4年(1595年)、京都・建仁寺仏教を学んだが、僧籍に入ること(出家)は拒否して慶長2年(1597年)、家に戻った。その間、建仁寺大統庵の古澗慈稽および建仁寺十如院の英甫永雄(雄長老)に師事し、雄長老のもとでは文学に長じた松永貞徳から刺激を受けた[2]。家に帰ってからはもっぱら儒書に親しみ、南宋の朱熹(朱子)の章句、集注(四書の注釈)を研究した[3]

独学を進めるうちに、いっそう朱子学(宋学)に熱中していき、慶長9年(1604年)に藤原惺窩と出会う。それにより、精神的、学問的に大きく惺窩の影響を受けることになり、師のもとで儒学ことに朱子学を学んだ。惺窩は、傑出した英才が門下に加わったことを喜び、羅山に儒服を贈った。羅山がそれまでに読んだ書物を整理して目録を作ると四百四十余部に上った。羅山は本を読むのに、「五行倶に下る」といい、一目で5行ずつ読んでいきすべて覚えているという。羅山の英明さに驚いた惺窩は、自身は徳川への仕官を好まなかったので、翌慶長10年(1605年)には羅山を推挙して徳川家康に会わせた。羅山が家康に謁見したのは京都二条城においてであった[4]。家康は、惺窩の勧めもあり、こののち羅山を手元に置いていくこととした[3]。羅山は才を認められ、23歳の若さで家康のブレーンの一人となった。方広寺の鐘銘東京都新宿区にある林氏墓地。林羅山をはじめ一族が眠っている。国の史跡に指定されている。内部は11月初旬のみ公開されている。

慶長11年(1606年)にはイエズス会の日本人修道士イルマン・ハビアンと「地球論争」を行っている。この時林羅山は地動説地球球体説を断固として受け入れず、地球方形説と天動説を主張した。

慶長12年(1607年)、家康の命により僧形となり、道春と称して仕えた。また、この年、江戸に赴き2代将軍徳川秀忠に講書をおこなっている。長崎で本草綱目を入手し、駿府に滞在している家康に献上している[5]。また、慶長19年(1614年)の大坂の陣に際しては方広寺梵鐘に刻された京都南禅寺の禅僧文英清韓による銘文中の「国家安康」「君臣豊楽」の文言の件(方広寺鐘銘事件)で、家康に追従して、これを徳川家を呪詛するものとして問題視する意見を献じた[6]。さらに羅山は「右僕射源朝臣家康」(右僕射は右大臣の唐名)を「家康を射る」ものであると無理にこじつけた見解を表明している[6]

寛永元年(1624年)、3代将軍・徳川家光(秀忠の長男)の侍講となり、さらに幕府政治に深く関与していくことになる。その活躍は、『寛永諸家系図伝』『本朝通鑑』などの伝記・歴史の編纂・校訂、古書・古記録の採集、「武家諸法度」「諸士法度」「御定書百箇条」などの撰定、外交文書の起草、朝鮮通信使の応接など多岐にわたっている[4][注釈 3]。寛永12年(1635年)には武家諸法度を起草し、翌寛永13年(1636年)には伊勢神宮参拝典礼にあたっている。

寛永7年(1630年)、将軍・家光から江戸上野忍岡に土地を与えられ、寛永9年(1632年)、羅山は江戸上野忍岡に私塾学問所)・文庫孔子廟を建てて「先聖殿」と称した。のちに忍岡聖堂と呼ばれる施設である(これらはのちに神田の昌平坂に移されることとなる)。この私塾からは、多くの門人が輩出し、後世の昌平坂学問所の基礎となった。また、尾張藩初代藩主の徳川義直は、羅山が羅山の私邸の一角において孔子を祀る略式の釈奠を執り行うことについて援助しており[4]、晩年は幕府より910石を給せられた[7]

徳川家の家康・秀忠・家光・家綱将軍4代に仕えた羅山は、初期の江戸幕府の土台作りに大きく関わり、様々な制度、儀礼などのルールを定めていった[3]


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