はやし おりえ
林 織江
「林織江像」(個人蔵)
生誕林久
1744年
三河国吉田宿呉服町(現・愛知県豊橋市呉服町)
死没1818年11月26日(75歳)
国籍 日本
職業歌人
テンプレートを表示
.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ポータル 文学
林 織江(はやし おりえ、1744年 - 1818年11月26日[1])は、三河国吉田宿呉服町(現・愛知県豊橋市呉服町)生まれの女流歌人[1]。61歳の時に、漁夫歌人として知られる糟谷磯丸と出会い、指導を行いながら交流を深める中で、磯丸に大きな影響を与えた[1][2]。 延享元年(1744年)、三河国吉田宿呉服町(現在の愛知県豊橋市呉服町)に生まれる[1]。生家の林家(2代和泉屋)は薬種問屋である[3]。8歳の時に母を、10歳の時に父・景高を亡くし、妹・くめと共に叔父に引き取られ、郷土史家である林正森などに教えを受け成長する[1]。 宝暦6年(1756年)、13歳の時に25歳の林景政と結婚し、林景政が林家の婿養子に迎えられるが[3]、その8年後に死に別れる[1][2]。またその間にも、生まれて間もない子供や、養親の叔父夫妻を相次いで亡くしている[1]。 このように幼いころから身近な人物を相次いで亡くした織江は、京都の鍼医・羽衣石宮がどんな難病も全快させるという噂を聞き、自らもその技を会得したいと彼に師事することを決意。安永の初期ごろから石宮に弟子入りを果たし、宮路と名乗りながら鍼術を学ぶようになる[1]。 ある時、石宮と共に歌人・宗匠大納言芝山持豊
来歴
文化元年(1804年)、伊良湖にて糟谷磯丸と出会い、無学ながら歌道を愛するその姿に心打たれる[1]。磯丸を師・持豊に紹介し、また自分自身も全身全霊で指導を行うなど、磯丸の歌人としての人生に大きな影響を与える[1]。
文政元年(1818年)11月26日、75歳で亡くなる[1][2]。家族には「夫・景政と同じ日に供養してほしい」という遺言を残している[2]。 幼名を久(ひさ)[1]。織江の人物像は堅忍不抜、負けん気が強くも人情味溢れる性格であったと称される[2]。 『伊良古之記』は、織江が61歳の時に渥美半島一周の旅をした紀行文[4]。
人物
作品
「とふとさやこまもろこしも及びなき神代のままの大和言の葉」[4]
「天地と共に開きし敷島の道のさかえをなほもあほがん」[4]
「浅草に かりこめられて きりぎりす われもなくかや おれもなくなり」[5] - 15歳の作品
出典^ a b c d e f g h i j k l m n 郷土豊橋を築いた先覚者たち編集委員会『郷土豊橋を築いた先覚者たち』豊橋市教育委員会、1986年、224-225頁。
^ a b c d e f 「吉田城が生んだ才女林織江B 磯丸をつれて京都で歌会」『東海展望』1976年9月、38頁。