政治家の「林義郎」あるいは「林義郎 (実業家)」とは別人です。
林 由郎 Yoshiro HAYASHI
基本情報
名前林 由郎
生年月日 (1922-01-27) 1922年1月27日
没年月日 (2012-01-02) 2012年1月2日(89歳没)
国籍 日本
出身地千葉県我孫子市
経歴
成績
初優勝関東プロ(1948年)
日本プロゴルフ殿堂 殿堂表彰者
選出年2012年
2009年2月25日現在
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林 由郎(はやし よしろう、1922年1月27日 - 2012年1月2日)は、千葉県我孫子市出身のプロゴルファー、ゴルフ指導者・解説者。
長男の由一もプロゴルファーである。 第二次世界大戦直前の1930年代に貧しい農家であった一家を支えるため[1]、小学校を卒業した林は自宅近くの我孫子GCでキャディのアルバイトを始める。大人顔負けの日銭が稼げる仕事でそれ以上のものではなかったが、いち早くボールを発見し利用客に喜んでもらうために一生懸命、客の構えとボールの方向をよく見ていた[1]。毎日、目の前でプレーを見ている内に自然の成り行きでゴルフに魅せられていくと、キャディの仕事の意味は一変。客のスタンスの取り方、グリップの形、テークバックの上げ方、バンカーショットなど、目を皿の様に観察し、練習する毎日となった[1]。厨房でコックがオムライスを作る手元を見ていた林は、そのフライパン返しの手首の返し方が、バンカーショットの上手い客の手首の動きに似ていることを発見。以来これが林の定評のあるバンカーショットとなり、バンカーはピンチでなく、チャンスという自信の礎となった[1]。 キャディトーナメントを経て1938年に16歳でプロテストを受け、貧しい農家の息子であった林が当時「貴族・金持ちのスポーツ」と思われていたゴルフのプロになるなど前代未聞の出来事であったが、結果は見事一発合格[1]。時代は次第に軍事色を強め、特に太平洋戦争中は「敵性競技」であるゴルフは、クラブを持つだけでも白眼視されるなど苦労を極める。3年目の1940年には国内のトーナメントも次々中止され、林にも召集令状が来る[1]。徴兵されて世田谷の近衛師団に入隊、一時プロ活動を中断。入隊後の仕事は蹄鉄作りであったが、むらなく滑らかな蹄鉄の打ち方を学ぶうちに林は「そうだ、これはまさに上から叩いて引くバンカーショットと同じなんだ。よし、蹄鉄の表面がバンカーだと思って、ハンマーがサンドウェッジだと思ってやってみよう。」と気付く[1]。蹄鉄打ちに明け暮れ、優秀な工務兵となった林はその技術を評価され出兵せずに内地に残ることとなる[1]が、後に林は著書の中で「私は師団にいても片時もゴルフのことを忘れなかった。いつかはまたゴルフができる時がくるはずだ、ゴルフこそ、人生の生きがいなんだということを、強く心の中で思っていたのである。」と振り返っている[1]。 戦後にプロ活動を再開し、ゴルファーとしての初仕事は、芋畑や練兵場になっていたゴルフ場を修復する事であった[1]。1948年の関東プロで戦前戦後を挟んで10年目の初優勝を果たし、宝塚ゴルフ倶楽部で行われたエキシビションマッチに出場[1]。右脇を閉めて左脇を開けるフック打ち専門だった林は、15番ホールで左足下がりのライで大空振りしてしまう[1]。その様子を宮本留吉と戸田藤一郎に笑われてしまい、彼らは「関東のゴルファーはこの程度かいな」と言いつつも、「林君、よう見ときや」とフックとスライスを打ち分ける見本を見せてくれた[1]。林は「右もあれば左もあるんやで」の言葉から、「物事には様々なアプローチがある。見た物や教わった事を全て取り入れる柔軟さと、自分の物に出来るだけの技量が大事だ」と悟り、後に「その後のゴルフ人生を変えた出来事」と語っている[1]。 その後は日本プロで1949年にストローク・プレー、1950年にはマッチ・プレーになったが、林は決勝で9-7という大会史上最多の大差で小野光一を下して2連覇[2]。1950年には日本プロの2日前に終わったばかりの日本オープンも逆転優勝しており[3]、戦後の再開公式戦3つをいずれも取り、世間をアッといわせた[2]。関東オープンなども次々に制覇し、戦後復興のゴルフ界に一躍トッププレーヤーとして躍り出ると[3]、1952年夏にはアメリカ・シカゴタモシャンタで2週連続で行われた全米ゴルフトーナメントと世界プロゴルフ選手権に日本人として戦後初めて招待されるなど、中村寅吉、小野らと共に復興期の日本ゴルフ界を支えた。林は中村・島村祐正・石井迪夫と共に招待されるが、特に世界プロは優勝賞金当時世界最高額の2万5000ドルというビッグトーナメントで、全米オープンやマスターズの優勝賞金が4000ドルの時代に、文字通り桁違いの賞金額であった[4]。全米トーナメントは高速グリーンに戸惑ったが、3オーバー、291で回って日本勢最高位の42位に終わる[4]。 1953年からは林の単独遠征となったが、ドルの無い時代で遠征には苦労した[5]。シカゴでは在留邦人達の声援を受けながら奮闘し、「大和魂で行け!」と激励された林は大柄な外人との組み合わせでも、ドライバーショットの飛距離で互角に渡り合った[5]。アメリカでは小柄な体から子供に間違われ、コースからつまみ出されそうになったが、ベン・ホーガンやサム・スニード等の当時の一流ゴルファーの技術に触れ、いち早く取り入れた。1955年まで計4回も世界の強豪相手に戦いを続け、最高成績は1953年全米トーナメントの39位で、同年の『ゴルフマガジン』に「日本のプロはパッティングが弱いのが致命的であると思う」とコメントを寄せている[4]。林にとって決して満足のいく結果ではなかったが、海外挑戦の成果は国内で次々にトーナメントを制することで実証してみせた[4]。
略歴
1956年にはカナダカップ日本代表に選出され、団体では石井のペアでホーガン&スニード( アメリカ合衆国)、ボビー・ロック
&ゲーリー・プレーヤー( 南アフリカ連邦)、アル・ボーディング&スタン・レオナルド( カナダ)に次ぎ、ダイ・リース&デニス・スモールドン( ウェールズ)、ジョン・パントン&エリック・ブラウン( スコットランド)、アーサー・デバルダー&フローリー・ファンドンク( ベルギー)、パーシー・クリフォード&ロベルト・デ・ビセンツォ( メキシコ)、ピーター・トムソン&ノーマン・フォン・ニダ、ハリー・ブラッドショー&クリスティ・オコナー( アイルランド)、アンゲル・ミゲル&セバスチャン・ミゲル( スペイン)を抑え、ケン・バウスフィールド&ハリー・ウィートマン( イングランド)と並ぶ4位タイの好成績を出して世界の注目を浴びる。