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林 房雄
(はやし ふさお)
『サンケイグラフ』1954年8月8日号より
ペンネーム白井 明[1]
誕生後藤 寿夫(ごとう ひさお)[1]
(1903-05-30) 1903年5月30日[1]
大分県大分市大分港
死没 (1975-10-09) 1975年10月9日(72歳没)[1]
神奈川県鎌倉市[1]
墓地鎌倉報国寺
職業小説家、評論家
最終学歴東京帝国大学法学部中退[1]
活動期間1925年(大正14年) - 1974年(昭和49年)[1]
代表作『青年』(1932年)
『息子の青春』(1950年)
『妻の青春』(1952年)
『大東亜戦争肯定論』(1964年)
『西郷隆盛』(1942年-1948年、1964年-1970年)[1]
主な受賞歴第13回文学界賞(1937年)
第1回大衆雑誌懇話会賞(1947年)
デビュー作「日和見主義の誕生」(1925年)
「林檎」(1926年)[1]
配偶者繁子(妻)、好子(後妻)
影響を与えたもの
三島由紀夫
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林 房雄(はやし ふさお、1903年(明治36年)5月30日 - 1975年(昭和50年)10月9日)は、日本の小説家、文芸評論家。大分県大分市出身。本名は後藤 寿夫(ごとう ひさお)。戦後の一時期の筆名は白井 明。戦後は中間小説の分野で活動し、『息子の青春』、『妻の青春』などを出版し舞台上演され流行作家となった。 父が酒に溺れたため、家業の雑貨商が破産。このため母が紡績工場の女工として家計を支えた。1916年(大正5年)、旧制大分中学校(現・県立大分上野丘高校)入学後は、銀行家の小野家の住み込み家庭教師として働きながら苦学し、1919年(大正8年)、第五高等学校に入学してからも小野家の援助を受ける。東京帝国大学法学部中退。
略歴
1925年(大正14年) - 『科学と芸術』を発表。
1926年(大正15年) - 京都学連事件で検挙・起訴(禁固10か月)。『文芸戦線』に小説『林檎』を発表しプロレタリア文学の作家として出発する。
1927年(昭和2年) - 日本プロレタリア芸術連盟分裂、中野重治・鹿地亘・江馬修らは残留し、脱退した青野季吉・蔵原惟人・林房雄らは労農芸術家連盟を創立。志賀義雄に恋人を取られ、その失恋をもとにした「酒盃」を『改造』に発表[2]。
1928年(昭和3年) - 『プロレタリア大衆文学の問題』発表。
1929年(昭和4年) - 『都会双曲線』発表。
1930年(昭和5年) - 日本共産党への資金提供を理由に治安維持法違反で検挙。のち起訴され、豊多摩刑務所に入る。公判中に転向する旨の上申書を提出する[3]。大堀繁子と結婚、高円寺に暮らす。
1932年(昭和7年) - 出所して鎌倉に転入。『青年』発表。「新潮」で『作家として』で転向を表明。
1933年(昭和8年) - 小林秀雄、武田麟太郎、川端康成、深田久弥、広津和郎、宇野浩二らと同人誌『文学界』を創刊。(?1944年(昭和19年))。長男・英彦誕生。
1934年(昭和9年) - 静岡県伊東に転居(政治家・小泉三申の別荘であった)。二男・昭彦誕生。
1935年(昭和10年) - 『浪漫主義者の手帖』を著し、マルクス主義からの離反を主張。『壮年』発表。神奈川県鎌倉郡鎌倉町浄明寺宅間ヶ谷(現・鎌倉市浄明寺2丁目8)に転居。川端康成を隣家に誘い、12月に川端が引っ越してくる。
1936年(昭和11年) - 『プロレタリア作家廃業宣言』発表。
1937年(昭和12年) - 松本学・中河与一・佐藤春夫らと新日本文化の会を結成。日中戦争(日支事変・支那事変)への作家の従軍に参加(このほか、吉川英治、吉屋信子、尾崎士郎、岸田国士、石川達三らが従軍)
1938年(昭和13年) - 『文学と国策』を発表。
1939年(昭和14年) - 『西郷隆盛』を発表。1970年(昭和45年)に完結。
1941年(昭和16年) - 『文学界』3月に『転向について』を発表(横浜湘風会機関誌『湘風』から転載)。
1943年(昭和18年) - 小林秀雄と満州・中国を旅行。
1947年(昭和22年) - 「小説時評」で坂口安吾らを「新戯作派」と名付ける。
1948年(昭和23年) - 戦争協力により、文筆家として公職追放[4]。
1952年(昭和27年) - 妻の繁子が鎌倉浄明寺の自宅にて自殺。かねてより林の女性関係などに悩んで鬱状態にあり5度の自殺を試みていた[5][6][7]。林は、『息子の青春』などで描いた理想的な家族関係について、精神を病んだ妻の回復や幸福な家庭再建への願望を込めて執筆したといった趣旨をうかがわせる発言を行った。
1953年(昭和28年) - 『文学的回想』を発表。愛人だった中野好子(赤坂氷川町の貸席『なかの』経営者で三味線奏者)と再婚[8][9]。「悪妻物語」(京橋出版社)など9冊を刊行[9]。
1963年(昭和38年) - 三島由紀夫『林房雄論』が発表される。『中央公論』に『大東亜戦争肯定論』を発表。大きな物議を醸した。『朝日新聞』の月一回『文芸時評』を担当する(?1965年(昭和40年))。
1966年(昭和41年) - 三島由紀夫と対談した『対話・日本人論』を出す。
1972年(昭和47年) -『悲しみの琴―三島由紀夫への鎮魂歌』を発表。
1975年(昭和50年) - 胃癌のため死去[10]。