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林 忠彦
1955年、ロサンゼルスにて
国籍 日本
出身地山口県
生年月日 (1918-03-05) 1918年3月5日
没年月日 (1990-12-18) 1990年12月18日(72歳没)
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林 忠彦(はやし ただひこ、1918年〈大正7年〉3月5日 - 1990年〈平成2年〉12月18日)は、日本の写真家である。 山口県生まれ。木村伊兵衛、土門拳、渡辺義雄などと並ぶ昭和を代表する写真家の一人である。太平洋戦争(大東亜戦争)後の日本の風俗や文士、風景など多岐にわたる写真を撮影した。 特に文士を撮影したものは有名で、銀座のバー「ルパン」で知り合った織田作之助・太宰治・坂口安吾の酒場での姿や、坂口安吾の紙屑に囲まれた仕事場の風景は、林忠彦の名を世に知らしめた[1]。特に1946年に撮った太宰治のネクタイ姿の肖像写真が有名。この写真を撮った時のことについては、林自身による回顧が残されている。林が撮った、太宰治。銀座のBAR「ルパン」にて(1946年)[2] ルパンは銀座の文春画廊の裏横丁にあって、仕事の連絡場所として林が使っていたバーだった[3]。ある日、織田作之助と坂口安吾の他に2、3人がルパンにやってきたので、林が織田の写真を撮っていると、反対側で安吾と並んで飲んでベロベロに酔っぱらっていた男が「おい、俺も撮れよ。織田作(織田作之助)ばっかり撮ってないで、俺も撮れよ。」ととわめきだした[3]。この男が太宰だった。当時、林は太宰の顔を見知っておらず、隣りの人にあれは誰かと聞いて初めて太宰だと知った[3]。 この時に、残っていた最後のフラッシュ・バルブを使って撮ったのが、有名になる太宰のポートレート写真である[3]。 撮影から1年半後に太宰が劇的な自殺を遂げたことで、使用注文が相次いだ[3][4]。 晩年は癌に冒され、脳内出血のため半身不随とも闘病し、東海道を中心とした写真を撮り続けた。 没後の1991年(平成3年)郷里の徳山市(現・周南市)と徳山市文化振興財団によりアマチュア写真家振興の目的で「林忠彦賞」が創設された。また、周南市美術博物館には林忠彦記念室が設けられている。
経歴
略年譜
1918年(大正7年)山口県都濃郡徳山町(現・周南市幸町)の林写真館の長男に生まれる。
1930年(昭和5年)徳山尋常高等小学校を卒業し、徳山商業学校(現・徳山商工高校)に入学する。
1935年(昭和10年)徳山商業学校を卒業し、親の薦めで大阪市の中山正一写真館へ修行に出る。
1936年(昭和11年)肺結核のため帰省し入院。退院後、アマチュア写真クラブ「猫之目会」に入会し、林城民の名で活動する。
1938年(昭和13年)上京しオリエンタル写真学校入学。同年卒業して帰郷。
1939年(昭和14年)郷里でその放蕩ぶりが問題になり、勘当同然の状態で再度上京。東京光芸社に入社。
1941年(昭和16年)日本報道写真協会の会員となる。
1942年(昭和17年)中国に渡り、石津良介・大竹省二・加藤恭平らと在北京日本大使館の外郭団体として「華北弘報写真協会」を設立し、日本の宣伝写真を撮影した。
1946年(昭和21年)北京で敗戦を迎え、この年に郷里徳山へ復員する。すぐに上京し、撮影活動を再開する。11月25日、銀座のバー「ルパン」で織田作之助・太宰治・坂口安吾ら文士と知り合い彼らを撮影する[5]。
1947年(昭和22年)秋山庄太郎・石津良介らと写真家集団「銀龍社」を結成する。赤穂英一
1950年(昭和25年)日本写真家協会の創立に参加する。
1953年(昭和28年)秋山庄太郎・大竹省二・早田雄二と二科会に写真部を創設する。
1955年(昭和30年)ミスユニバース日本代表選考会を撮影した『日本代表誕生』がバヤリース・フォト・コンテストの1等となり、日本代表として大会に出場した高橋敬緯子らとともに初めてアメリカ合衆国に渡った。ミス・ユニバース世界大会を取材し、その後ニューヨークなど撮影旅行を行う。
1961年(昭和36年)日本写真家協会副会長となる。
1971年(昭和46年)日本写真協会年度賞を受賞する。日本写真協会理事に就任する。
1972年(昭和47年)二科展出品作「織田広喜」で総理大臣賞を受賞する。
1980年(昭和55年)日中写真文化交流の復活のため日本写真文化訪中団に参加し中国に渡る。
1981年(昭和56年)日本写真家協会副会長を辞任、名誉会員となる。全日本写真連盟理事に就任する。
1983年(昭和58年)紫綬褒章を受章する。
1985年(昭和60年)肝臓癌となり1年間に4度の手術を行う。
1986年(昭和61年)四男・林義勝の助けを借り最後のライフワーク「東海道」撮影を開始する。札幌市で脳内出血により倒れる。
1988年(昭和63年)勲四等旭日小綬章受章、日本写真協会功労賞受賞。徳山文化協会より特別文化功労者として表彰される。
1989年(平成元年)徳山市市民文化栄誉賞を受賞。
1990年(平成2年)個展「林忠彦の時代」を開催、そのオープニングセレモニーで倒れ入院する。12月18日午前0時27分死去。享年72。
ギャラリー
配給を受ける長蛇の列 (銀座、1946年〈昭和21年〉)
復員 (品川駅、1946年〈昭和21年〉)
靴磨きをする戦災孤児(1946年〈昭和21年〉)