林彪事件
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林彪事件
林彪(1959年
場所 中国 モンゴル
日付1971年9月8日-9月13日
概要林彪中国共産党中央委員会副主席による、毛沢東共産党主席暗殺未遂及びクーデター未遂事件、及びその後の亡命未遂事件
原因中国共産党の権力闘争
攻撃手段爆弾による毛沢東暗殺
死亡者林彪ら9人
動機文化大革命時における林彪と毛沢東の対立
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林彪事件(りんぴょうじけん)は、1971年に発生した、中華人民共和国林彪中国共産党中央委員会副主席による、毛沢東共産党主席暗殺未遂及びクーデター未遂事件、及びその後の亡命未遂事件。「9・13事件」とも呼ばれる。
経緯
毛沢東の後継者に認定国共内戦時代の林彪(写真左)

林彪は、日中戦争国共内戦で活躍し「十大元帥」(序列は、朱徳彭徳懐につぐ第3位)にも列され、1949年の中華人民共和国成立後に中国共産党中央人民政府委員や中南軍区司令員、中国共産党中央委員会副主席(1958年八全大会第二次会議、当時は劉少奇周恩来、朱徳、陳雲も副主席)、中共中央軍事委副主席に選出された。

その後、文化大革命勃発直後の1966年8月に開かれた中国共産党第八期中央委員会第十一回全体会議(第8期11中全大会)で唯一の中国共産党副主席となり、「実権派(走資派)からの奪権」が一段落した1969年4月に行われた第9回中国共産党大会(「9全大会」)では毛沢東の後継者として公式に認定された。
林彪と毛沢東の対立

林彪の妻葉群および四大金剛と呼ばれた部下の将軍黄永勝呉法憲邱会作李作鵬も政治局委員に選出され、林彪の政治的立場も大幅に強化された。しかし文化大革命に際して毛沢東と対立した劉少奇の失脚以後、空席となっていた国家主席のポスト廃止案に同意せず、毛沢東に野心を疑われることになる。

また、林彪と毛沢東には対外政策での意見の食い違いがあり、これが反目につながったとも言われる。1969年3月に起きた珍宝島事件を契機に、毛沢東はソビエト連邦の脅威をますます実感するようになった。そのため「二正面作戦をとるのは上策ではない」として、かつては「米帝(アメリカ帝国主義)」と罵り敵視していたアメリカに接近を試みる。一方、林彪は「あくまでも敵はアメリカである」と主張したという。しかし林彪グループの一員・呉法憲は、死後に香港で刊行された回想録で「林彪グループは外交政策には特に意見はなく、林彪らがアメリカ接近に反対したというのは事実ではない」と述べている。

なお、林彪事件の翌年1972年2月にアメリカのリチャード・ニクソン大統領が北京を訪問して毛沢東と会談し、中華人民共和国を事実上「中国の政府」として認めた[注釈 1]ニクソン大統領の中国訪問を参照)。

また、林彪が息子である林立果(既に空軍のナンバー2になっていた)への世襲を画策しており、毛はそれを嫌ったという説もある[注釈 2]

その後、1970年中共中央九期二中全会などで林彪とその一派は、毛沢東の国家主席就任や「毛沢東天才論」を主張して毛沢東を持ち上げ懐柔しようと試みたが、野心を疑い続けた毛沢東に批判されることになる。
毛沢東暗殺計画

さらに、林彪らの動きを警戒した毛沢東が、林彪とその側近に対し粛清に乗り出したことから、1971年3月27日には、林彪の息子で空軍作戦部副部長だった林立果が中心となり、地方視察中の毛沢東を爆殺し、同時にその後の権力掌握のためのクーデターを実行し、広州で新政権を樹立することなどを画策した計画書「五七一工程紀要」(「五七一/W?q?y?」=「武装起義/W?zhu?ng Q?y?」、いわゆる「クーデター」)を作成することになる。

なお、林立果らは「五七一工程紀要」の中で、「毛沢東は真のマルクス・レーニン主義者ではなく、孔孟の道を行うものであり、マルクス・レーニン主義の衣を借りて、始皇帝の法を行う、中国史上最大の封建的暴君である」、「中国を人民の相互軋轢によるファシズム独裁国家に変えてしまった」という記述を記している。
暗殺計画失敗

その後の1971年8月から9月にかけて南方を視察中の毛沢東が、視察先で林彪らを「極右」として猛烈に批判したことを機に、身辺の危機を感じた林彪とその側近らは、9月5日に毛沢東の乗った専用列車を爆破する暗殺計画の実行を決意し、8日に実行に移した。

これに併せ林彪と林立果、妻の葉群や側近らは毛沢東暗殺計画成功後のクーデターの準備のために河北省北戴河に移った。なお、毛沢東暗殺計画成功の暁には北戴河から北京に戻り、副主席の林彪が毛沢東党主席の後継者となるつもりであった。また、計画失敗の際は広州で林彪を首班とする新政権を樹立、もしくは当時中華人民共和国と対立関係にあったソビエト連邦へ亡命する計画であった。

しかし事前に暗殺計画の情報が毛沢東らに漏れたために、毛沢東らは専用列車を当初の杭州から直接北上させ上海で下車するルートから、紹興へ迂回させた上で、上海で下車せず12日に北京へと戻るルートを取ったために爆破に至らず、最終的に暗殺計画は失敗した。

なお、「暗殺計画の情報が毛沢東に漏れたのは、林彪の娘の林立衡(中国語版)が毛沢東側近の周恩来総理に密告したため」との説があり、現在はこの説が定説となっている。「当初、林彪は毛沢東暗殺まで考えていなかったが、最終段階になって息子の林立果にクーデターと暗殺計画を打ち明けられ、急遽実行を了承した」という説もある。また暗殺計画は林立果と葉群らが立案したもので、林彪は関与していなかったという説もある。林彪側近軍最高幹部で林彪事件の政治責任を問われた黄永勝呉法憲李作鵬邱会作らは、事件は彼らにとっても寝耳に水だったと回想している。邱会作は、もし林彪が実際にクーデターを企てていたなら必ず自分たちに相談があった筈だ、「林彪は大軍事家であり、実戦経験も豊富であることを忘れてはならない。林彪がもしクーデターを実行したなら必ず成功していただろう」[1]、と述べて、林彪の関与に否定的な見方を示している。

また、西側の研究でも林彪がクーデターに積極的に関わった可能性は低いと考えられている[注釈 3]
逃亡ホーカー・シドレー トライデント1E型機(同型機)

9月12日の夕方に、毛沢東暗殺に失敗したことを知った林彪と側近らは、中国人民解放軍が所有するイギリス製のホーカー・シドレー トライデント1E型機(シリアルナンバー256、パキスタン国際航空1965年に導入して運用後に中華人民共和国に譲渡。


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