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林 哲司
出生名林 哲司
生誕 (1949-08-20) 1949年8月20日(74歳)
出身地 日本・静岡県富士市
学歴日本大学商学部中退[1]
ジャンルJ-POP
ポピュラーミュージック
シティ・ポップ
職業作曲家
編曲家
シンガーソングライター
活動期間1973年(歌手)-
1976年(作曲家)-
共同作業者グルニオン
杉山清貴
上田正樹
康珍化
公式サイト ⇒林哲司オフィシャルウェブサイト
林 哲司(はやし てつじ、1949年8月20日[2] - )は、日本の作曲家、編曲家、シンガーソングライター。静岡県富士市出身[2]。 五人兄弟の末っ子として生まれる[3]。幼少の頃から兄の影響で米国のポップスを聴いて育った[2]。 20歳の頃にヤマハが主催する音楽スクールに入り、その後ヤマハの音楽雑誌「ライトミュージック」の編集などに携わる[2]。1972年、ヤマハ主催の第3回世界歌謡祭チリ大会[4]に自作の『それが恋の終りなら』を応募した[5][注釈 1]ことをきっかけに、1973年4月[3]にシンガーソングライターとしてデビュー。1975年、PMPの朝妻一郎と笹島斌により、大橋純子の歌などが入った林作のデモテープが、フランス・カンヌのMIDEM(音楽見本市)に出展される。収録曲「If I have to go away」がイギリスのロックバンド・ジグソーのプロデューサーから気に入られ、当初ジグソーのアルバム曲として収録する予定であったが、思いの外完成度が高かったことから、シングルとして1977年リリース、全英・全米共にチャートイン[6]を収めた。 その後作曲家・編曲家としての活動が中心となり、1980年代に入ると、上田正樹「悲しい色やね」、杏里「悲しみがとまらない」、中森明菜「北ウイング」、原田知世「愛情物語」、菊池桃子「卒業-GRADUATION-」、杉山清貴&オメガトライブ「ふたりの夏物語 -Never Ending Summer-」、河合奈保子「デビュー?Fly Me To Love」など、多数のヒット楽曲を手掛けていた[注釈 2]。
来歴・人物