林光
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林 光
生誕 (1931-10-22)
1931年10月22日
出身地 日本東京府
死没 (2012-01-05) 2012年1月5日(80歳没)
日本東京都
学歴慶應義塾高等学校卒業
東京芸術大学音楽学部中退
ジャンルクラシック音楽映画音楽
職業作曲家
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林 光(はやし ひかる、1931年10月22日 - 2012年1月5日)は、日本の作曲家である。
経歴
幼少期から芸大まで

1931年10月22日東京府東京市牛込区神楽坂 (現在の東京都新宿区神楽坂) に生まれる[1]フルート奏者林リリ子は従姉[2][3]。光の父である林義雄は慶應義塾大学医学部出身の医師で、ベルリン留学ののち、日本大学医学部教授を務めていた。「音声学の権威であり、臨床医としても、ほとんどの声楽家や演劇人のノドを診てきた名医であった」[3]尾高尚忠とはベルリン留学中に知り合い、帰国後も親しく交流していた。

1934年、園田高弘の父園田清秀が指導する自由学園幼児生活団に入る[1]。その後自由学園初等部に進み、1945年慶應義塾普通部入学。1948年慶應義塾高等学校進学。高校の同級生に小林亜星冨田勲小森昭宏らがいた[4]。1951年東京芸術大学音楽学部作曲科に入学[5]

9歳の頃より父の親友である尾高尚忠に師事し[1]、少年ながらも室内楽作品、管弦楽作品など大人顔負けの作品を多く作曲した。尾高が『フルート協奏曲』改訂版の最終ページのオーケストレーションを残して1951年に急逝した際、それを補筆完成したのは当時19歳の林光であった。尾高の死後は池内友次郎に師事した[5]。また、慶應義塾高等学校在学当時、同校で教鞭を執っていた遠山一行の授業を受けたことを終生誇りにしていた。高校での同窓にフルート奏者でリリ子の門下である峰岸壮一や演劇の浅利慶太などがおり、音楽と演劇の接点を体験した。浅利や日下武史らと演劇部を結成したり、父の知人千田是也の縁で俳優座の音楽も作曲した[6]。またうたごえ運動や民衆芸術にも興味を抱くようになった[6]東京藝術大学作曲科では、作曲を池内友次郎、ピアノを田村宏安川加寿子に師事する[5]。在学中の1953年1月に自作『交響管弦楽のための1章』が東京交響楽団定期演奏会で演奏されたが[7]、学外作品発表を巡る学校側の対応や体質に疑問を抱き、中退した[5][6]
芸大中退以降

1953年9月には外山雄三間宮芳生らと共に「山羊の会」を旗揚げした[8]。同年『交響曲ト調』で芸術祭賞を受賞、1956年には『オーケストラのための変奏曲』で尾高賞を受賞し、一躍注目されるようになる[6]

器楽曲の作曲と並行して日本語によるオペラにも早くから取り組み、『裸の王様』(1955年)、『あまんじゃくとうりこひめ』(1958年)、『絵姿女房』(1961年)を次々発表し、この分野で名声を博す[6]。1975年にはオペラシアターこんにゃく座の音楽監督兼座付き作曲家となった[6]

声楽曲では社会の動静に敏感に反応した作品を発表し、広島で被爆した詩人原民喜の詩に着想した合唱組曲『原爆小景』を、1958年から2000年まで40年に渡り作曲し、高く評価された[6]。このほか、宮沢賢治の作品の音楽化をライフワークとし、2000年には賢治の全詩作品を収めた『賢治の音楽室』を小学館から刊行した[9]。「ソング」と呼ぶ小規模な歌曲作品には労働運動平和運動に関係したものも多い。また、日本教職員組合教育研究全国集会音楽分科会の助言者(講師)を長く務めた。

1956年の木村荘十二監督『森は生きている』以降映画音楽も多数手がけているが、中でも新藤兼人監督作品は、1959年の『第五福竜丸』から遺作『一枚のハガキ』まで、そのほとんどを担当した[6]。劇音楽では劇団黒テント佐藤信監督との共同作業がよく知られている[6]

1990年にはサントリー音楽財団の「作曲家の個展」で委嘱作品『八月の正午に太陽は…』を含む作品が演奏された[10]。1996年、『ヴィオラ協奏曲悲歌』で第44回尾高賞を受賞[6]。1998年にオペラシアターこんにゃく座で上演した『吾輩は猫である』でサントリー音楽賞を受賞した[11]

著書には『日本オペラの夢』(岩波書店[12]、『音楽の学校』(一ッ橋書房)[13]など多数ある。2008年には、主要作品をCD20枚に収め詳細な解説を付し、関係者インタビューなども収載した『林光の音楽』が小学館から刊行された[14][15]
晩年・没後

2011年9月24日に自宅前で転倒して頭を打ち、入院・療養していたが、2012年1月5日、東京都内の病院で死去した[16]。80歳没。

死後、そのコレクション2,910点が、国立国会図書館に収められ、2018年から公開されている[17]


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