林 健太郎人物情報
生誕 (1913-01-02) 1913年1月2日
日本・東京府
死没2004年8月10日(2004-08-10)(91歳)
日本・東京都
出身校東京帝国大学
学問
研究分野西洋史学(近代ドイツ史)
研究機関第一高等学校
東京大学
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林 健太郎(はやし けんたろう、1913年〈大正2年〉1月2日[1] - 2004年〈平成16年〉8月10日[1])は、昭和期に活動した日本の歴史学者、政治家、評論家。保守派として知られた。専門は西洋史学(近代ドイツ史)。東大教授・文学部長。第20代東大総長、自由国民会議所属参議院議員(1期)を務めた。
経歴(旧姓・香取)[2]で、ワシントン軍縮条約での減員対象となり、大佐昇進と同時に予備役編入となり、中学の国語漢文の教師となった。『近藤真琴先生伝』(攻玉社、1937年)を編纂している。戦時中は志願して現役復帰し、済州島の航空司令を務めた[3]。健太郎は1944年、31歳の時に徴兵され、大日本帝国海軍の一等水兵となるも、父親のコネで、非常に優遇された軍隊生活だったとの回想が残る[4]。父の予備役編入は、健太郎の東京府立第六中学校(現東京都立新宿高等学校)在学時代であった。
旧制第一高等学校を経て、1935年に東京帝国大学文学部西洋史学科を卒業[5]。文学部の今井登志喜に師事。東大卒業後は、旧制一高教授、東京大学文学部助教授を経て、1954年より教授[1]。学生時代はマルクス主義に傾倒する左翼学生であり、戦時中は反ファッショの論陣を展開していた。1943年に『独逸近世史研究』を出版し、近代ドイツの政治・社会の特質を解明した。
戦後はマルクス主義から転向し、竹山道雄、高坂正顕らと「日本文化フォーラム
」を結成した。その後の評論活動は現実主義の立場から時流を批判する立場を貫き、マルクス主義や進歩的文化人を批判し、左派からはタカ派と称された。『中央公論』1956年11月に「国民的利益と階級的利益」を発表。1968年の東大紛争では、文学部長として全共闘の学生に8日間にわたってカンヅメ状態にされ、学生側と団交を行ったが、学生の要求を全部拒否し、剛直な姿勢を貫き通した(林健太郎監禁事件)。当時の加藤一郎総長代行(のち総長に就任)を支え、後任として1973年から1977年まで第20代東京大学総長を務めた。4年間にわたり学園紛争収拾と東京大学の立て直しに尽力した。
1983年6月、参院選の比例区に自民党公認(名簿2位)で出馬し、初当選した(ただし、自民党籍はなく、党友の扱いを受ける自由国民会議の所属であった。このため、当選後の自民党の参議院内会派名は「自由民主党・自由国民会議」とされた)。1989年7月の参院選には出馬せず、1期限りで政界を引退した。その後、日本育英会会長、国際交流基金理事長などを務めた。
近代ドイツ史の専門家としてドイツの外交史やドイツ革命史の研究で業績をあげたが、その他に論壇での幅広い言論活動でも知られる。高校教科書のベストセラーとなった『詳説世界史B』(山川出版社)を共著した著者の一人でもある。
2004年8月10日午後1時50分、心不全のため、東京都の自宅で死去した[1]。91歳。
受賞・栄典
1988年:「戦後の歴史教育の独立を成した」(直後、高等学校地理歴史科が成立)として菊池寛賞を受賞した。