板橋
町丁
板橋区役所(2016年12月)
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度44分58秒 東経139度42分55秒 / 北緯35.74933度 東経139.71536度 / 35.74933; 139.71536
国 日本
都道府県 東京
特別区 板橋区
地域板橋地域
人口情報(2024年(令和6年)3月31日現在[1])
人口24,542 人
世帯数16,083 世帯
面積([2])
1.006854131 km²
人口密度24374.93 人/km²
郵便番号173-0004[3]
市外局番03(東京MA)[4]
ナンバープレート板橋
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板橋(いたばし)は、東京都板橋区の町名[5][6]。現行行政地名は板橋一丁目から四丁目。全域で住居表示が実施されている[7]。 板橋区南東端に位置する。北で仲宿および加賀、東で北区滝野川、南で豊島区上池袋および池袋本町、西で大山金井町、大山東町および氷川町と隣接する。東辺をもって板橋区 - 北区境、南辺をもって板橋区 - 豊島区境を形成する。町域中央部を国道17号(中山道)、東辺を東日本旅客鉄道赤羽線(通称埼京線)、西辺を東京都道317号環状六号線(山手通り)が通じ、板橋四丁目北東部を石神井川が流れている。町域は板橋区役所をはじめ多くの官公署が立地しているほか、民間企業事務所、住宅地として利用されている。 「板橋」は、旧中山道宿場などの歴史的地名・橋梁名・駅名・東京都の自治体名でもあるため、様々な意味合いで用いられる汎称地名である。時代により指し示す地域が異なる。 住宅地の地価は、2024年(令和6年)1月1日の公示地価によれば、板橋2-14-6の地点で58万1000円/m2となっている[8]。 廃藩置県実施前は武蔵国豊島郡下板橋宿、瀧野川村、および金井窪村の各一部地域。中山道板橋宿のうち、江戸市中に最も近い平尾宿 地名の由来は、石神井川にかかる橋「板橋」から。記録によれば、約800年前の鎌倉時代から地名として使われている。
地理
河川
石神井川
谷端川(暗渠)
千川上水(暗渠)
汎称地名
中山道の整備・宿駅伝馬制度確立(江戸時代初期)以前については板橋郷を参照。
中山道の宿場時代(江戸時代)については板橋宿を参照。
旧中山道の橋梁については板橋 (石神井川)を参照。
鉄道の駅については板橋駅を参照。
東京都の自治体としての板橋については板橋区を参照。
自治体名としての「板橋」として、現代では区内全体を指す地名としても使われる。そのため企業の支店名や店舗名などで、志村、上板橋、赤塚地域に立地する場合でも「板橋」を名乗る事例がみられる。一例として、旧志村前野町に立地する「イオンスタイル板橋前野町店」、志村一丁目に立地する「凸版印刷板橋工場」、舟渡四丁目に立地する「日本金属板橋工場」など。
地価
歴史
地名の由来
旧町名
1932年の板橋区発足時点で、旧板橋町大字下板橋地域を再編して命名された行政地名の(旧)板橋町一丁目?十丁目は、現在の板橋一丁目?四丁目とは異なる地域を指す。それぞれ以下の地域に相当する。
(旧)板橋町一丁目:現在の板橋一丁目?二丁目
(旧)板橋町二丁目:現在の板橋二丁目、大山東町、大山金井町など
(旧)板橋町三丁目:現在の熊野町、中丸町、南町など
(旧)板橋町四丁目:現在の大山町、幸町、大山西町など
(旧)板橋町五丁目:現在の板橋三丁目、仲宿、氷川町など
沿革
14世紀(室町時代初期):観明寺が創建されたと伝えられる。
1602年(慶長7年):徳川家康の命により中山道が整備され、伝馬制度により中山道の江戸日本橋側から最初の宿場として板橋宿が設置される。
1602年(慶長7年):加賀藩・前田利光(後の前田利常)の江戸入府に伴い、当地で徳川秀忠の出迎えを受ける。
1604年(慶長9年):中山道に、日本橋起点二里地点を示す平尾一里塚が造られる。
1635年(寛永12年):参勤交代制が実施され、加賀藩などおよそ30の藩が中山道を用いて江戸入府を行うようになる。
1639年(寛永16年):川越城主松平信綱の命により、川越街道が中山道脇往還として整備され、当地に平尾追分が置かれる。
1679年(延宝7年):加賀藩主・金沢城主前田綱紀が、幕府より現在の加賀一丁目・二丁目および板橋三丁目・四丁目一部地域の土地を拝領し、およそ6万坪に及ぶ下屋敷とする。最盛期にはおよそ21万坪に達した。
1696年(元禄9年):千川上水が開削される。
1868年(慶応4年):戊辰戦争で新撰組局長近藤勇が下総国流山で捕えられ、官軍総督府が置かれていた板橋宿に身柄を送られる。平尾宿脇本陣(豊田家)におよそ20日間拘留されたのち、現在の北区滝野川で斬首される[注釈 1]。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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