板橋宿
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この項目では、武蔵国の板橋宿について説明しています。下野国の板橋宿については「板橋宿 (日光例幣使街道)」をご覧ください。
『木曾街道 板橋之驛』[注釈 1]
天保6- 8年(1835-1837年)、渓斎英泉筆。
画面の左端、道の中央に「是從板橋(これより いたばし)」と記されているであろう傍示杭[注釈 2]が建っている。中央より若干左手に見える姿のよい旅人は武家の夫婦で、1人の使用人が後に続く。その使用人は、乗っていくよう武家夫婦に声掛けすべく出茶屋から飛び出してきた駕籠かきを、巧みに遮っている。使用人の体の向きから察するに、おそらく3人は茶屋で一服していたのであろう。休憩後の出ばなの誘いを駕籠かきは振り切られてしまったように見える。しかし、武士の妻は声に応えてか頭の向きを変えている。駕籠かきが客をのがしたかどうかはまだ分からない。茶屋の中には客の町人2人がいて、(えのき)の陰に隠れて見えないが、飲み食いしているはずである。また、店先では馬子が馬のための草鞋を取り替えている。

板橋宿(いたばししゅく)は、日本近世にあたる江戸時代に整備され、栄えていた宿場町中山道六十九次のうち江戸日本橋から数えて1番目の宿場[注釈 3]武蔵国のうち、第1の宿[注釈 4])。同時に、川越街道川越児玉往還)の起点でもある。

所在地は、江戸期には東海道武蔵国豊島郡板橋郷下板橋村[注釈 5]。現在の住所では東京都板橋区本町、および、仲宿板橋1丁目、3丁目にあたる。
板橋宿の特徴
江戸四宿の一つ

江戸時代には武蔵国豊島郡下板橋村の一部で、東海道の品川宿、甲州街道の内藤新宿、奥州街道・日光街道の千住宿とならび、江戸四宿の一つとして栄えた[1]江戸の境界にあたり、江戸後期には上宿の入り口にある大木戸より内側をもって「江戸御府内」「朱引き」、すなわち、「江戸」として扱われていた[2]

板橋宿はそれぞれに名主が置かれた3つの宿場の総称であり、上方側(側、北の方)から上宿(かみ-しゅく。現在の本町)、仲宿(なか-しゅく、なか-じゅく、中宿とも。現在の仲宿)、平尾宿(ひらお-しゅく。下宿〈しも-しゅく〉とも称。現在の板橋)があった。上宿と仲宿の境目は地名の由来となった「板橋」が架かる石神井川であり、仲宿と平尾宿の境目は観明寺付近にあった[2]

道中奉行による天保12- 15年(1841- 1844年)の調べ(『中山道宿村大概帳』)[3]によると、宿往還の長さは20町9間(約2.2km)、うち町並地は長さ15町49間(約1.7km)であり、南北に広がる。宿内人口[注釈 6]は2,448人(うち、男1,053人、女1,395人)、宿内家数[注釈 7]は573軒であった。うち、本陣は仲宿に1軒、脇本陣は各宿に1軒ずつ計3軒が設けられ、旅籠(はたご)は総計54軒であった。板橋宿の中心的存在であった仲宿には、問屋場、貫目改所[注釈 8]、馬継ぎ場、番屋(自身番の詰め所)があった。また、上宿には木賃宿(商人宿)や馬喰宿[注釈 9]が建ち並んでいた[2]

江戸時代には日本橋が各主要街道の形式上の起点ではあったが、実際の旅の起点・終点としては、江戸四宿と呼ばれる品川宿千住宿、内藤新宿、そして、板橋宿が機能していた。これらの宿場には茶屋や酒楼はもちろん飯盛旅籠(めしもり-はたご)も多くあり、旅人のみならず見送り人[注釈 10]や飯盛女(宿場女郎)目当ての客なども取り込んでたいそうな賑わいを見せた。規模は同じ天保15年頃の宿内人口と家数を比較して大きいほうから、千住宿(9,556人、2,370軒)、品川宿(7,000人、1,600軒)、内藤新宿(2,377人、698軒余)、板橋宿(2,448人、573軒)と、板橋宿は四宿の中では最下位ながら、その繁栄ぶりは中山道中有数[2]であった。なお、板橋宿は150人もの飯盛女を置くことが認められており、日本橋寄りの平尾宿には飯盛旅籠が軒を連ねていた。幕末の戊辰戦争の際、中山道から江戸攻撃に進軍中であった官軍は、天璋院からの書状によりここで停止した。宿場町として終焉を迎えたのは明治時代。その頃になると中山道の重要性の低減に連れて徐々に寂れてゆき、板橋遊廓へと変貌していった。遊廓としての賑わいは昭和中期の太平洋戦争中まで続いた。遊廓として使われていた『新藤楼』の玄関部分は現在、板橋区立郷土資料館に移築されて保存されている[4][5]
川越街道の起点

板橋宿は第一に中山道の宿場であるが、脇往還として江戸側から分岐する川越街道川越児玉往還)が平尾宿を起点としており、平尾追分と呼ばれていた。また、日本橋から2里(約7.9km)の平尾宿には道中2つ目の一里塚(平尾の一里塚)があったが、今は何も残されていない。
板橋

板橋は、仲宿付近の石神井川に架けられ、地名「板橋」の由来とされる橋である[6][注釈 11]

その名は『義経記』等の文献の中で、平安時代の昔より既にあったものとして登場する。古代から近代にかけてのものは文字どおり板張りの木橋、江戸時代のものは、長さ9間(約16.4m)、幅3間(約5.5m)の緩やかな太鼓橋で、歌川広重の浮世絵や長谷川雪旦の『江戸名所図会[7]にも描かれている。橋の形は明治以降も変わらなかったが、昭和7年(1932年)を境に以後はコンクリート橋になっている。現在、二つの川、二つの橋が連続して存在するように見えるが、これは南側に大きくV字状に回り込んでいた川を昭和47年(1972年)の河川改修で直線化した結果である。北に約10m移動した石神井川の橋と、埋め立て公園化された元の川にかかる橋がある。コンクリート製ながら、欄干に木目模様を施して雰囲気を演出している。橋の傍らには「距日本橋二里二五町三三間」「日本橋から十六百四十三[注釈 12]と記された標柱と、案内板がある。現在は板橋十景の一つとされている[2][8]
遍照寺

江戸初期以前の創建とされる遍照寺(へんしょう-じ)は、江戸期にはその境内が馬つなぎ場となっていた。ここで開かれる馬市は明治40年(1907年)頃まで続いていた。寛政10年(1798年)建立の馬頭観音像が名残を留める。江戸期の天台宗であった寺は廃仏毀釈時代の明治4年(1871年)に廃されたが、明治14年(1881年)旭不動冥途と称して成田山新栄講の道場となり、昭和22年(1947年真言宗智山派成田山新勝寺末寺の寺院として再興。


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