板戸
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板戸(いたど)は建具の一種で、板で作られた。主にの板で作られるが、一部にガラスなどを用いるものもある。
板戸(建具)の歴史
飛鳥・奈良時代の建具
法隆寺

現存する日本最古の木造建築は、斑鳩寺ともいわれ聖徳太子建立607年頃の、奈良の法隆寺である。現存する法隆寺西院伽藍(金堂含む)は、一度火災で焼失した後、7世紀末頃に再建されたものであることが定説となっているが、法隆寺金堂の中の扉が、一応現存する最古の扉といえる。しかし、昭和修理の時に火災で初層内部を焼損し、二枚を張り合わせて一枚の扉に復元されている。当初の扉は、高さ3m幅約1m厚さ約10cmの、檜(ひのき)の節なしの一枚板であった。

金堂よりおくれて奈良時代に建立された、金堂裳階の四面の扉は現存している。やはり一枚板で、高さ2.7m幅1m厚さ約8.5cmの大きさで、下部に唄ばい金銅の飾り金具を打ち上部に連子窓を設けている。この連子窓の九本の連子は、一枚板から彫りだしたものであるという。大変な労力を費やした扉である。

法隆寺建立から約150年後に創建された鑑真ゆかりの寺唐招提寺(759年創建)の金堂は、鑑真の没後、8世紀末頃の建築と推定される。唐招提寺金堂の扉は、幅の狭い板を五枚縦に並べて、裏桟に釘どめした板桟戸構造になっている。扉の表面に出た釘頭を隠す為に、饅頭型の木製漆塗りの飾りを付け、扉全体の変形を防止するため金銅八双金具(装飾と補強を兼ねた建築金具の一種)を、取り付けている。

奈良時代の住宅の一部で現存するものは、やはり法隆寺の東院伝法堂である。伝法堂は、元来聖武天皇の橘夫人の邸宅の一部であったものが聖徳太子の斑鳩宮の跡である法隆寺東院に寄進されたものである。仏堂にするため一部改造されているが、当時の寺院建築にみられるような、板敷を除けば唐の強い影響を受けた建築構造となっている。

伝法堂の前身建物は妻入り(屋根の妻側を正面とする)で、平面構造は、桁行(奥行)三間、梁行(幅)四間の壁と扉で閉ざされた主室部分と、桁行二間梁行四間の開放的部分とそれにつづく広い簀子(すのこ)敷から構成されている。空間を間仕切るものとしては壁と扉しかなく、内部間仕切りのない、広間様式の建築構造となっている。伝法堂は、当時の建築としては珍しく、柱に礎石を用いているが、奈良時代平城京では、ほとんどの建物が古墳時代と同様な掘立柱であった。

これらの建物は梁行二間の母屋(もや:主構造が柱と屋根の屋)だけで作られており、廂(ひさし)がまだ発達していない簡素な様式であった。
広間様式の建築

正倉院文書』によって知られる藤原豊成の板殿がある。文書によって復元される構成は、桁行五間梁行三間で、壁と連子窓と扉で囲われた室部分と前後の広い板敷から構成されている。

この藤原豊成の板殿も、やはり内部間仕切りのない広間様式の建築であった。基本的な工法は伝統的な在来工法を用いているが、扉口や連子窓などは大陸の技術によっている。

つまり、この時代までは開口部を作る独自の技術がなかったと判断される。伝法堂も板殿もいずれも、建具としては共通して唐様式の扉しかなく、内部空間を仕切る建具がなかったのが、奈良時代の建築の特徴といえるであろう。

奈良時代には、衝立や簾、几帳のような可動式の「障子」が使用されていた。衝立状のものとしては、奈良時代の『法隆寺縁起并資材帖』に、高さ7尺巾3尺5寸で、表が紫綾織り張り、裏面が縹(はなだ:青色)の裂地(きれじ)張りであったと記録されている。木製の格子を骨組みとして、両面に絹布を張り衝立て状に台脚の上に立てたものである。一般的には軽い杉板を台脚の上に立てた衝立てが、主流であった。
平安時代の建具
寝殿造りと建具

平安時代の貴族の邸宅の典型は、寝殿造りである。寝殿造りの建物は、現存していないが、京都御所紫宸殿清涼殿は、平安時代後期の形式を再現しているという。

平安宮内裏の正殿である紫宸殿は、正面九間の母屋の四方に廂(ひさし)の間を設けた間取りであり、外部との仕切りの建具は四隅と北廂中央に妻戸を開く他、柱間に一枚の大きな蔀戸を設け、昼間は内側に釣り上げて開く。

妻戸とは、扉の事で、建物に対して、妻のような役割から妻戸という。紫宸殿の妻戸は、二枚の板を接ぎ合せ、裏桟の替わりに上下に端喰み(はしばみ)という細長い台形の横板を入れて板を固定したもので、手のこんだ作りとなっている。

蔀(しとみ)戸は、格子を組み間に板を挟む板戸で、水平に跳ね上げて開く。内部の仕切りとして、母屋と北廂の間の境に「賢聖の障子」を設け、母屋と西廂の間は壁で仕切られている。この障子は、今日の明かり障子ではなく、絹布を貼った可動式の嵌め込み式の板壁で室礼(しつらい)として用いられ、時に応じて設置されるものであった。絹布に賢聖を描いていたので、「賢聖の障子」の名がある。紫宸殿は、平安京の大内裏の正殿で、朝賀・公事を行なう所で、のち大礼も行なわれた。京都御所、御常御殿の蔀戸、開けるときは外側に吊り上げてとめる

そして、中央間と東西第二間の三ヶ所に「障子戸」が設けられていたという。その外はすべて蔀戸で仕切られているが、これ以外に仕切りの無い広間様式である。

清涼殿は、天皇の起臥する室であったので、細かく仕切られているが、建具の使用状況は、紫宸殿と同じで、側面と塗篭めに妻戸(とびら)を設け周囲は蔀戸を釣っていた。塗篭めは、周囲を厚く土壁で塗りこめた部屋で、納戸や寝室として使われた。この他、東孫廂(まごひさし)の見通しを遮るために「昆明池の障子」が置かれていた。この障子は、衝立てで、漢の武帝が水軍訓練のため、長安城の西に掘らせた昆明池を描いた衝立てである。さらに、春夏秋冬の儀式を描き上げた年中行事障子(衝立障子)が、殿上の間の戸口の前に置かれていた。

「障子」とは古くは、間仕切りの総称であった。「障」とは、間をさえぎるの意であり、「子」は小さいものや道具につけられる接尾語である。衝立、屏風(びょうぶ)、簾(みす)、几帳あるいは、室外との仕切の唐戸(扉の一種)、舞良戸(板戸の一種)、蔀戸等の総称であった。
襖障子(ふすましょうじ)の誕生詳細は「」を参照

清涼殿に有名な「荒海障子」があった。この唐風の異形の怪人を描いた墨絵の障子は、衝立て障子ではなく、引き違いの障子、すなわち襖障子であったと見られている。

枕草子』にも

「清涼殿の丑寅のすみの、北のへだてなる御障子は、荒海の絵、生きたる物どものおそろしげな・・・」

とある。

また江戸時代の『鳳闕見聞図説』には、明らかに引き違いの襖障子として、「荒海障子」が描かれている。この唐絵の裏面には、宇治の網代木に紅葉のかかった大和絵が描かれていた。

これが資料的に確かな、最古の引き違い戸の襖障子である。

この「荒海障子」すなわち、襖建具の誕生の年代を、各資料から推測してみたい。

『拾遣集』に

寛和二年(986年)清涼殿のみしょうじに網代書けるところ・・・」

とあり、九八六年以前から、存在していた事になる。

九七九年成立の『落窪物語』に

「隔ての障子をあけて出づれば、閉すべき心もおぼつかず」

「中隔ての障子をあけ給ふに」

などとあるから、へだての障子は障子と解釈できる。

この頃には、一般の貴族の邸宅にも、引き違いの襖障子があった事になり、清涼殿の、みしょうじすなわち「荒海障子」はこれ以前に存在していたと考えられる。

『歌仙家集本貫之集』の承平六年(936年)春の歌に

右大臣藤原仲平おやこ同じ所にすみ給ひける、へだての障子」

とある。これは間仕切りとしての障子の使用である。嵌め込み式の板戸よりも、引き違いの襖障子の方が自然である。これに従えば、九三六年以前に、引き違い襖障子が有ったことになる。

扶桑略記』に仁和四年(888年)宇多天皇勅して、巨勢金岡(こせのかなおか)に弘仁年間(810?823年)以降の詩文にすぐれた儒者の影像を、御所の障子に描かせたとある。

御所南廂の東西の障子とあるが、衝立て障子であったか、襖障子であったかは定かではない。

巨勢金岡の経歴は不詳ながら、絵の達人で大和絵の創始者とされており、時の関白藤原基経の依頼で屏風に大和絵を描いている。

一方、紫宸殿の母屋と北廂の間の境に「賢聖の障子」があった事は前に述べた。

「賢聖の障子」の成立の確かな資料は、『日本紀略延長七年(929年)の条に、

「少内記 小野道風をして紫宸殿障子を賢聖像に改書せしむ。先年道風書く所なり」

とあり、この以前から存在していたことになる。

書き改めるには少なくとも十年以上の歳月を経て、顔料の劣化や色醒めがあったと考えられるから、延喜年間(901?914年)には作成されていた事は間違いない。

「賢聖の障子」は、嵌め込み式の板壁に絹布を張ったものである。

東西各四間の柱間ごとにそれぞれ四人ずつ合計三十二人の賢聖の像を描いたものであった。


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