板戸井
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板戸井
大字
北守谷公民館
板戸井板戸井の位置
北緯35度57分59.37秒 東経139度57分28.37秒 / 北緯35.9664917度 東経139.9578806度 / 35.9664917; 139.9578806
日本
都道府県 茨城県
市町村 守谷市
人口(2017年(平成29年)8月1日現在)[1]
 ? 合計1,158人
等時帯UTC+9 (日本標準時)
郵便番号302-0101
市外局番0297[2]
ナンバープレートつくば

板戸井(いたとい/Itatoi)は、茨城県守谷市の地名。旧北相馬郡板戸井村。郵便番号は302-0101。
目次

1 地理

1.1 河川


2 歴史

2.1 地名の由来

2.2 沿革


3 世帯数と人口

4 交通

5 小・中学校の学区

6 施設

7 史跡

8 祭事・催事

9 参考文献

10 脚注

11 関連項目

地理

守谷市北部に位置する。地域の中心に鬼怒川が流れ、地域内を県道野田牛久線が通り、新守谷駅前通りの終点となっている。地域内には北守谷公民館がある。地域の中央を鬼怒川が流れていることから、鬼怒川の東を通称「東板戸井」、西を「西板戸井」と呼ぶ[3]

東は松前台、西は常総市菅生町・野田市木野崎、南は大木薬師台、北は常総市内守谷町と接している。
河川

鬼怒川 - 地域の中央を流れる一級河川。かつて鬼怒川は当地を通っていなかったが、利根川東遷事業の一環で掘削された。掘削による河川のため、下流に位置するにも関わらず台地の間を貫いている。

歴史

当地域は、古くは守谷郷に属し、全域が下総国相馬郡板戸井村となっていた。元は鬼怒川は流れていなかったが、鬼怒川掘削のために働いていた内守谷村の人夫が1625年寛永2年)に土砂崩れで死亡した記録がある[4]ことから、それ以前に鬼怒川の掘削が始まっていたと推測され、1634年寛永11年)ごろ掘削が完成し、現在のように地域内に鬼怒川が流れるようになったと考えられている[4]1637年(寛永14年)頃は一色忠次郎の知行所であり、「下総国相馬郡板戸井村差出帳」によると、1669年寛文9年)から1694年元禄7年)にかけて計4回行われた検地の全てで一色氏の知行所となっており、1699年元禄12年)の第五回検地においては牧野備前守の所領となっている[5]。江戸末期には代官小笠原甫三郎及び田安領となっており、1706年(宝永3年)の「板戸井村書上帳」によると 民家108軒、人口555人の村となっていた[4]。また、少なくとも幕末には名主が鬼怒川以東と鬼怒川以西に1人ずつ存在した[4]

「旧高旧領取調帳」によると、幕末には田安領(712石8斗3升5合)と幕府領(12石8斗8升9合)となっており、幕末より下総野鎮撫府、下総知事県の管轄となり、1869年(明治2年)には葛飾県1871年(明治4年)には印旛県の管轄となり、1873年(明治6年)の大区小区制では第十四大区六小区となったが、これは本来は仮定であり、実地不便の向きもあるということを理由に第五大区七小区へと再編されている[3]。また、同年千葉県となる。1875年(明治8年)には千葉県から茨城県に移管され、第九大区二小区となる。1878年(明治11年)の郡区町村制で大区小区の区分けは廃止され、同時に相馬郡が利根川を境に南相馬郡北相馬郡に分離し、北相馬郡板戸井村となる。1889年(明治22年)3月1日には同じ北相馬郡の大木村、大山新田、立沢村と合併し、板戸井は大井沢村の大字となり、1955年昭和30年)3月1日には同じく北相馬郡守谷町、大野村、高野村と合併し、守谷町の大字となる。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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