板垣 鷹穂(いたがき たかお/たかほ、1894年(明治27年)10月15日 - 1966年(昭和41年)7月3日)は、美術評論家。西洋美術史の研究者として、その業績を著作に残す。また、明治以降から同11年代までの日本近代建築についての論評をはじめ、映画、写真など新たな美術領成をメディア論として論じた草分け的存在でもあった。
モダニズム研究で文芸、美術、建築、文学にまで射程は広い。終戦後に早稲田大学文学部教授となり、最晩年まで教鞭を取った。ほか明治大学教授、東京写真大学教授を歴任した。 東京神田生まれ。文芸評論家の平山直子(板垣直子)と結婚。 1915(大正4)年、第一高等学校第二部退学後、東京帝国大学文科大学哲学科の選科生として西洋美術史を学ぶ。1921(大正10)年、東京美術学校非常勤講師。西洋美術史を1930年まで担当。 1924(大正l3)年、文部省在外研究員として1年間ヨーロッパに滞在。1925(大正l4)年、東京女子大学、法政大学文学部非常勤講師。 1929年『新興芸術』を創刊。また帝国美術学校(現・武蔵野美術大学)創立に参加、学科担当教員になる(1945まで、戦後は1949-64)。1931(昭和6)年、民衆娯楽調査委員会委員(文部省嘱託1939まで) 1939(昭和14)年、演劇、映画、音楽等改善委員会映画部会主任(1941まで)。1940(昭和15)年、鉄道省嘱託(1943まで)。1941(昭和16)年、国民映画制作審査委員会委員(情報局)。1947(昭和22)年、東京都都市芙審議会委員。1948(昭和23)年、金沢美術工芸専門学校教授。1954(昭和29)年、東京大学文学部美学・美術史学科非常勤講師。1957(昭和32)年、早稲田大学文学部非常勤講師(1959教授、1965退職)。1965(昭和40)年、東京写真大学教授(没年まで)。
略歴
著書
単著
『西洋美術史概説』岩波書店、1922年4月。
『新カント派の歴史哲学』改造社〈文化哲学叢書 第2編〉、1922年7月。NDLJP:969850
『西洋美術主潮』岩波書店、1924年2月。NDLJP:1871984
参考文献
「対談?建築美を探る八章、村野藤吾、板垣鷹穂」『国際建築』1955年4月号
「板坦鷹穂先生追悼」『武蔵野美術』59 1966年10月号
佐藤武夫「板坦鷹穂さん」『火燈窓』相模書房、1969
藤岡洋保・三村村太郎「〈建染評論家〉板垣鷹穂の建築観」『学会論文報告集・計画」 394 1988.12月
藤岡洋保『(近代日本、建築家の足跡 板坦鷹穂」『建築文化』1990年1月号
脚注[脚注の使い方]^ 五十殿利治「機械美論とヨーヨー」『思想』1000号、2007年による。ただし、同文で五十殿は明治大学での教授としての活動は、1935年以降不明であるとしている。
外部リンク
⇒板垣鷹穂とは - コトバンク
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