板垣與一
[Wikipedia|▼Menu]

板垣 與一(いたがき よいち、1908年10月15日 - 2003年8月28日)は、日本経済学者国際政治学者。1932年に旧制東京商科大学を卒業。以後同大学(のち一橋大学)を研究拠点とし、戦前は植民地政策を研究領域として南方軍占領地の軍政に関与。戦後はアジア政治経済を研究領域とし、アジア経済研究所の設立を提言した。1972年亜細亜大学教授、経済学部長。1988年八千代国際大学初代学長。1972年一橋大学名誉教授。1980年勲二等瑞宝章受章。1984年経済社会学会会長[1]目次

1 経歴

1.1 戦前

1.2 戦後

1.3 学会・社会活動

1.4 晩年


2 著作物

3 栄典

4 門下

4.1 ゼミ生


5 親族

6 脚注

7 参考文献

8 外部リンク

経歴
戦前

1908年
富山県射水郡新湊町(現射水市)の漁師の家に生まれる[2]

1921年 富山県立高岡甲種商業学校(現富山県立高岡商業高等学校)入学[2]

1926年 小樽高等商業学校に無試験で入学[2]

1932年 東京商科大学中山伊知郎ゼミナール)[3]卒業、同大学研究科進学[4]

1933年10月 同研究科中退、同月同大学「補手」[4]

1935年7月 同大学助手、1940年2月 同大学助教授(植民地政策、商業政策担当)[5][4]

1940年6月 同大学附属商学専門部教授兼務[6]

1940年7月 海軍省調査課嘱託[6]

1940年12月-1941年5月 蘭印、泰国、仏印、海南島、台湾を歴訪[5]

1942年2月-1947年[6] 東京商科大学東亜経済研究所研究員兼務[7][8]

1942年11月 南方軍軍政総監部調査部付となり[5]、同年12月、赤松要団長らとシンガポールに赴任[7][9]

1943年 山中篤太郎とともにジャワ島農村調査を行う[6]

1944年4月 馬来軍政監部調査部員となり、クアラルンプールに赴任[5]。事実上の軍政監部総務部長・浜田弘大佐直属の政策機関として民族工作を担当[7][10]。1945年7月、イブラヒム・ヤーコブ義勇軍中佐らマレー人の指導者を指導して、将来的な自治を目標としてマレー人の民族団体を組織化するクリス(KRIS)運動を発足させた[7][11]

1945年8月イポーにて終戦を迎える[12]。同年9月 クアラ・カンサル(英語版)のサラノースキャンプ入所[13]マラリアに罹患[6]

1946年8月 復員[5]

戦後

1949年10月に一橋大学・東京商科大学(1951年4月より
一橋大学経済学部)教授となり、経済政策・世界経済論を担当[4]。1957年4月に同大学経済学部長兼大学院経済学研究科長となり、同年9月から翌1958年9月までの海外留学[14]を挟んで、1960年3月まで在任した[4]

この間、1957年8月には岸信介内閣総理大臣にアジア研究所の設立を進言し、1958年に発足した財団法人アジア経済研究所の調査担当理事に就任(1959年まで在任)[15]

1962年3月 「アジアの民主主義と経済発展」により一橋大学経済学博士[4]

1968年4月-1971年3月 一橋大学附属図書館長及び評議員[4]

1972年3月 一橋大学を定年退職[4]

1972年4月-1973年3月 特殊法人貿易研修センター理事・教学長[4]

1973年4月 亜細亜大学経済学部教授、経済政策・国際関係概論担当[16]。1974年4月から同大学大学院の経済学研究科委員長[17]、1977年10月から同大学経済学部長[18]、1979年10月から同大学経済学部経済社会研究所長[19]を歴任[16]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:52 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef