凡例乾 正信
時代安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕不明
死没慶長13年1月17日(1608年3月3日)
改名加助(幼名)→正信
別名加兵衛
諡号前武衛校尉
戒名交桂芳意禅定門
墓所高知県高知市薊野東町(板垣山)
官位兵衛少尉
主君山内一豊→忠義
藩土佐藩
氏族板垣氏→乾氏
父母父:板垣信憲
兄弟正信、板垣正寅
妻服部勘解由女
子養子:正行
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乾の家紋(榧之内十文字)
乾 正信(いぬい まさのぶ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。土佐山内氏の家臣。板垣退助の直系の先祖にあたる。知行1000石。家紋は「榧之内十文字」。 甲斐武田氏の家臣・板垣信憲の嫡男として甲斐国で生まれる。父・信憲は板垣信方の嫡男で武田家の両職(筆頭家老)を継いだが、素行に問題があり、弘治3年(1557年)7月、信濃小谷城攻めに参陣の後頃、武田信玄から不行跡を理由に城代を解任されたうえ、甲府長禅寺へ謹慎に処せられた。あるいは改易に処し、板垣の名跡を板垣信方の娘婿・於曾左京亮に継がせ板垣信安と名乗らせて、以後、信玄はそちらを板垣家の嫡流として扱い、信憲は「板垣」の名を名乗ることも召し上げて追放したとも、私怨により本郷八郎左衛門
来歴
幼少期
父が死去したとき、正信はまだ幼少であったため、従者の北原羽左衛門・都築久太夫の両名に供奉され籠居したとされる。正信の弟・板垣正寅は父が殺害された後、生母と共に一旦丹波国へ籠居し、のち京都・南禅寺に預けられて育った。『遠碧軒記』によれば、正寅は聡明さを認められて還俗し、京都下御霊神社の斎部信英の女を娶り社家を継ぎ、下御霊神社出雲路家の祖となっている[3]。 正信は天正10年(1582年)3月の織田信長による武田征伐での武田氏滅亡後、同じく浪人となっていた孕石元成らと共に、天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐で陣借りして奮戦し遠江国掛川城主となった山内一豊に、同年10月7日に召抱えられた。 この時、推挙した家老・山内備後守(乾和三)より「乾」の使用を許可されたといわれる[4]。石高は136石で、知行地は、遠江榛原郡勝間田麻生村であった[5](孕石元成も一豊に召し抱えられ200石を賜った)。その後、20人の鉄砲衆を従えて御馬廻役に列した。 慶長6年(1601年)、主君・山内一豊が土佐国に封ぜられた際、知行1000石(内200石は鉄砲衆の役料知)を下し置かれた。 慶長13年1月17日(1608年3月3日)に病死。土佐土佐郡薊野村(現 高知県高知市薊野東町)板垣山に葬られた。 正信の跡は、養子・正行(山内一照の二男)が継いだ。 正信は血気盛んな侍で「家中のもめごとを治める事」という慶長9年(1604年)頃の話の中で喧嘩をした侍の例として取り上げられている。以下『南路志 ∴
青年期
山内家に仕官以降
逸話
系譜
1板垣兼信
板垣頼時2板垣頼重
3板垣頼兼板垣信頼板垣実兼武田長兼
4板垣行頼武田信貞
5板垣長頼中村兼邦
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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