板垣征四郎
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板垣征四郎
生誕1885年1月21日
日本岩手県
死没 (1948-12-23) 1948年12月23日(63歳没)
日本東京都豊島区巣鴨拘置所
所属組織 大日本帝国陸軍
軍歴1904年 - 1945年
最終階級 陸軍大将
墓所殉国七士廟
靖国神社
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板垣 征四郎(いたがき せいしろう、1885年明治18年)1月21日 - 1948年昭和23年)12月23日)は、日本陸軍軍人。最終階級陸軍大将[1]栄典正三位勲一等功二級満洲国軍政部最高顧問、関東軍参謀長陸軍大臣などを務めた。

関東軍高級参謀として石原莞爾とともに満洲事変を決行し、第二次世界大戦においては第7方面軍司令官を務めた。戦後の極東国際軍事裁判にてA級戦犯として死刑判決を受け処刑された。関東軍防疫部の設立提案者[要出典]。板垣政参の弟、元参議院議員板垣正は次男。
生涯
出自

岩手県岩手郡沼宮内村(現・岩手町)出身。仁王尋常小学校盛岡中学校仙台陸軍地方幼年学校陸軍士官学校16期)で学び、陸軍大学校28期)を卒業。

祖父・佐々木直作は盛岡藩士族で、藩校作人館の教授や藩主の侍講、郡奉行格勘定奉行を務めるなど藩の中心人物の一人であった。戊辰戦争秋田戦争で盛岡藩が敗れると、新政府により藩の責任者として楢山佐渡那珂通高と共に江戸増上寺に幽閉され、後に釈放されると岩手郡沼宮内の地に隠遁し板垣桑蔭を名乗った。なお、著名な政治家である板垣退助と桑蔭や征四郎の間に血縁関係はない。征四郎は日記の中で「祖父桑蔭は聖賢に近し」「文武兼備の聖人」「儒学の蘊奥を究めた」と記しており、非常に尊敬していた様子が窺える。父・板垣政徳は気仙郡郡長や女学校校長を務めた。明治・三陸大津波の犠牲者を慰霊する慰霊塔(大海嘯記念碑)の撰文は政徳が揮毫したものである。家の宗旨は日蓮宗であった。

盛岡中学では三級上に米内光政、一級上に金田一京助及川古志郎野村胡堂などが、一級下には石川啄木がいた。2年生(1898年度)当時は、全校で17人の特待生の一人で、この年度の学業成績平均は85点だった[2]

陸軍幼年学校時代は生徒監だった大越兼吉から厳しい訓育を受けた。大越は日露戦争奉天会戦で戦死したが、後に征四郎は大越の遺児である喜久子と後に結婚した。陸軍士官学校は第16期で岡村寧次土肥原賢二永田鉄山小畑敏四郎らと同期で交友も深く、板垣も二葉会、一夕会に所属していた。
満洲時代関東軍高級参謀時代

1929年(昭和4年)に関東軍の高級参謀に就任。1931年(昭和6年)、石原莞爾らと謀り柳条湖事件を起こし、満洲事変を実行した。満洲事変に於ける関東軍の行動は、宇垣一成派が追放された後に陸軍の実権を握っていた一夕会系中堅幕僚層からの支持を受け、永田鉄山軍事課長、岡村寧次補任課長、参謀本部の東条英機編成動員課長、渡久雄欧米課長などが、関東軍の活動を有利にさせる方向で動いた[3]

1932年(昭和7年)、軍司令部付で満洲国の執政顧問・奉天特務機関長となった。しかし同年の荒木貞夫による皇道派人事で関東軍司令官に武藤信義大将、参謀長に小磯国昭中将、参謀副長に岡村寧次少将が就任し満洲組が左遷されると、この頃の板垣にはもはや関東軍を牛耳る力はなかったとされる。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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