凡例板垣 兼信
時代平安時代後期から鎌倉時代前期
別名板垣三郎冠者、三郎兼頼
主君源頼朝
氏族甲斐源氏武田氏支流板垣氏
父母父:武田信義
兄弟一条忠頼、板垣兼信、武田有義、武田信光
子頼時
板垣 兼信(いたがき かねのぶ、生没年不詳)は、平安時代末期の武将。甲斐源氏4代当主で武田氏初代当主の武田信義の三男。通称は板垣三郎。板垣氏の祖。 武田信義の三男に生まれ、甲斐国山梨郡板垣郷(現・山梨県甲府市善光寺周辺)を苗字の地とする板垣氏の祖である。兄弟に一条忠頼、武田有義、武田信光らがあり、子に四郎頼時
来歴
治承・寿永の乱に際しては、一族とともに源頼朝の麾下に参加。兄の忠頼が頼朝によって誅殺された後は、武田氏の次期棟梁と目される存在となり、治承8年(元暦元年、1184年)2月7日の一ノ谷の戦いでは大将軍源範頼の軍の中に彼の名があり、また備前で平家を撃退するなど功績を挙げた。
『吾妻鏡』元暦元年3月17日条によれば、兼信は土肥実平の配下に加わることを不満とし頼朝に訴えるが、頼朝はこれを退けたという。甲斐源氏では同年6月16日に兄忠頼が誅殺されており、さらに父信義も失脚し勢力を失う。尚、頼朝の晩年には叔父安田義定も失脚している。文治5年(1189年)に兼信は太皇太后領・駿河国大津御厨(静岡県島田市野田)の地頭職を解任された。
建久元年(1190年)、違勅(勅令違反)の罪を問われて円勝寺領遠江国質侶庄[2](静岡県榛原郡金谷町志戸呂)の地頭職をも解任され、隠岐国へ配流された[3]。
子孫とする一族には、戦国時代に武田信玄の傅役となった板垣信方や、『甲陽軍鑑』によれば「両職」を務めたと言われる信方の子の信憲を輩出した。 源清光
系譜
父:武田信義
母:不詳
妻:不詳
男子:板垣頼時
男子:板垣頼重
男子:福士義之(福士氏の祖)
系図
実線は実子、破線は養子
逸見光長武田信義加賀美遠光安田義定浅利義遠
一条忠頼1板垣兼信武田有義武田信光
頼時2頼重
3頼兼信頼実兼 武田長兼
4行頼頼房 信貞
5長頼重房 (中村氏)
中村兼邦
6頼房信盛 兼貞
7信房重信 □
8兼光蓬沢長盛 □
9信将 □
10信国 □
11信鑑 □
12信能
13信為14信泰 信勝
信経15信方室住虎登女 繁勝元明 信里
16信憲酒依昌光17信安[4] 女就親 元行