板井圭介
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板井 圭介

基礎情報
四股名板井 圭介 → 高鐵山 圭介 → 高鐵山 大記 → 板井 圭介
本名板井 圭介
生年月日
1956年3月21日
没年月日 (2018-08-14) 2018年8月14日(62歳没)
出身大分県臼杵市
身長177cm
体重139kg
BMI44.37
所属部屋大鳴戸部屋
得意技突き、押し、叩き
成績
現在の番付引退
最高位西小結
生涯戦歴493勝515敗87休(78場所)
幕内戦歴331勝438敗41休(54場所)
優勝十両優勝2回
幕下優勝1回
三段目優勝1回
序二段優勝1回
序ノ口優勝1回
賞殊勲賞1回
技能賞1回
データ
初土俵1978年9月場所
入幕1980年9月場所
引退1991年9月場所
備考
金星大乃国3個)
2019年8月4日現在■テンプレート  ■プロジェクト 相撲

板井 圭介(いたい けいすけ、1956年3月21日 - 2018年8月14日)は、大分県臼杵市出身で大鳴戸部屋に所属した大相撲力士。本名同じ。最高位は西小結1989年5月場所)。現役時代の体格は177cm、139kg。得意技は突き、押し、叩き[1]
来歴
初土俵まで

5人兄弟の末っ子として生まれる[2]。臼杵市立福良西小学校、臼杵市立西中学校では主に野球をやっていた(主に右翼手だったという)。相撲は中学生の頃は助っ人として大会に出場する程度であったが[3]、当時実業団で活躍していた兄・義美を追って、大分県立大分水産高等学校(現・大分県立海洋科学高等学校)に入学してから本格的に相撲を始めた。

同高相撲部では1年生のときから県内有力校の3年生を次々に負かして評判となり、2年生になる頃には九州では負けなしで「大分に板井あり」と評判になった[4]。後年、板井自身は「高校生の頃が人生で一番稽古した時期」[5]と振り返っていたという。一方、助っ人として参加したラグビーの試合でを故障し[6]、これには力士時代にも終始苦しんだという。

高校卒業を前に宮城野親方(元横綱・吉葉山)からの熱心なスカウトを受けたが、「プロの激しい稽古にはとてもついていけない」[7]として断り、また多くの大学相撲部からの勧誘を受け、自身は駒澤大学への進学に前向きであったが実現せず[8]、高校卒業後は、黒崎窯業に就職してサラリーマン生活を4年間送った。同社相撲部では1976年1977年国体青年の部で優勝するなど活躍した。在職中の1975年には朝日山部屋入門が持ち上がったが、同部屋のお家騒動に巻き込まれ立ち消えとなった。また退社して東京農業大学に編入学する話もあったが会社から強い慰留を受けたため実現しなかった[9]という。

実業団時代には闘鶏に凝っていて[10]、競技用のまで飼っていたという。
角界入門後

1978年、サラリーマン生活に嫌気のさした板井は[11]、大鳴戸親方(元関脇高鐵山)の勧誘を受けたのを機に退社し、大鳴戸部屋に入門した[1]。入門初日の稽古では当時三段目だった維新力を圧倒、その後出稽古にきた朝日山部屋の幕下力士をも圧倒し、当時幕内だった蔵玉錦とも互角に取る等、力の違いを見せつけた[12]

1978年9月場所で初土俵を踏んだが、実業団時代の個人成績が足りないとの理由付けで幕下付出の申請が認められず[13]前相撲から取った。序ノ口から三段目まで3場所連続優勝し、26連勝(当時本割形式で行われていた前相撲を含むと29連勝)という当時の初本割からの最多連勝記録を打ち立てた(2012年1月場所で常幸龍貴之が更新。なお、連勝は元小結・大錦が止めた)[1]。翌年9月、序ノ口から僅か5場所で十両にスピード昇進(戦後では土佐豊、常幸龍と並ぶ1位タイ)。十両昇進を機に、四股名を本名の「板井」から師匠の現役名と同じ「高鐵山(こうてつやま)」に改めた。

最初は実業団のレベルを疑って幕下付出を認めなかった春日野理事長(元横綱・栃錦)は板井が出世すると入門の際に板井を過小評価したことを詫びたという。

その後も順調に番付を上げ、1980年9月場所、初土俵から丸2年で新入幕を果たした。しかし同場所では、足の関節を傷めた影響で全く振るわず途中休場し、すぐに十両へと陥落。翌年5月場所では再入幕したが、同場所も左膝の怪我により途中休場し、1場所で十両に下がった。それから間もなく、四股名を元の「板井」に戻し、廃業まで改名しなかった。その後も怪我に苦しみ、一時は東幕下45枚目まで番付を落としていた[注 1]

1983年3月場所にて4度目の入幕を果たしてからは鋭い踏み込みからの強烈な突っ張りを武器に長く幕内の座を守り、同門の横綱双羽黒横綱土俵入り時には露払いを務めた。幕内下位では確実に勝ち越すものの上位では横綱・大関になかなか勝てず、いわゆる「エレベーター力士」として過ごしてきたが[注 2]1989年3月場所では東前頭7枚目で11勝4敗と好成績を挙げて殊勲・技能両賞を受賞。ちょうど場所中に33歳の誕生日を迎えた板井は、潮錦(1959年5月場所)以来となる33歳以上の高齢での三賞初受賞を果たした。翌場所、自己最高位となる小結に昇進したが、この場所では3勝12敗と大きく負け越し三役経験はこの1場所のみで終わった。1991年5月場所では、2日目に「昭和の大横綱」と言われた千代の富士に敗れ、結果としてこれが千代の富士の現役最後の白星になった(千代の富士は翌3日目に貴闘力に敗れた後、引退を表明した)。

膝の故障のため巡業中には全くと言ってよいほど稽古をしなかった(ある巡業でぶつかり稽古をしていたところ「倒れ方を知っているのか[14]」と噂が立ったり、巡業の稽古土俵に上がっただけでやくみつるの漫画のネタにされたりした程だったという。)が、立合いのタイミングの取り方は天才的と評した親方もいた。
引退・廃業

1991年7月場所では、東前頭14枚目の地位で史上4例目となる幕内での15戦全敗を喫し(前場所13日目から18連敗)[注 3][注 4]、翌9月場所は十両へと陥落。この9月場所中に途中休場し廃業を表明した[注 5]。初土俵・新十両・新入幕・廃業がすべて同じ9月場所でのことだったという、珍しい経歴を残す形となった。

当初は現役を引退し、年寄春日山を借株で襲名する意向であったが[16][注 6][17]日本相撲協会が年寄襲名の申請を却下したため廃業せざるを得ない事態となった。なぜ協会が年寄襲名を認めず廃業させたかについては、「土俵上のマナーが悪かったから」・「廃業後、物議を醸した八百長相撲の主犯格として協会から目をつけられていたから」・「『15戦全敗』 という無様な成績を記録したから」などの憶測が流れた[18]が、その真相は明らかにされなかった。


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