松鳳山裕也
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松鳳山 裕也

十両土俵入りする松谷関(当時)
基礎情報
四股名松谷→松鳳山
本名松谷 裕也
愛称マツタニ、アシュラマン[注 1]、壊し屋[1]、悪魔、角界のブラックダイヤモンド[2]
生年月日 (1984-02-09) 1984年2月9日(40歳)
出身福岡県築上郡築上町(旧:椎田町
身長176cm
体重133kg
BMI44.69
所属部屋松ヶ根部屋→二所ノ関部屋→放駒部屋
得意技突き・押し
成績
現在の番付引退
最高位東小結
生涯戦歴582勝605敗22休(96場所)
幕内戦歴350勝415敗(51場所)
優勝十両優勝1回
幕下優勝2回
序二段優勝1回
殊勲賞1回
敢闘賞3回
データ
初土俵2006年3月場所
入幕2011年11月場所
引退2022年5月場所
(番付上は2022年7月場所)
趣味ビリヤード自転車
備考
金星5個(日馬富士3個、鶴竜2個)
2022年6月22日現在■テンプレート  ■プロジェクト 相撲

松鳳山 裕也(しょうほうざん ゆうや、1984年2月9日 - )は、福岡県築上郡築上町(旧:椎田町)出身で放駒部屋(入門時は松ヶ根部屋、一時二所ノ関部屋)に所属した元大相撲力士。本名は松谷 裕也(まつたに ゆうや)[3]、愛称はマツタニ。身長176cm、体重133kg、血液型はA型。最高位は東小結2013年7月場所、11月場所)。趣味はビリヤード自転車。好物はチャーハン火鍋。嫌いなものはセロリ[4][5]
来歴

幼稚園時代に空手水泳などを習ったが、この頃はどれも中途半端であったといい、岩丸小学校時代には相撲1本に絞り県大会にも出ていたものの稽古は大会前に行う程度であったという。幼少期の松谷はお菓子よりご飯を食べる子であったといい、小学校高学年の頃からチャーハンなどを自炊して食べることが多く、このころから体が大きくなったとのことである[4]。椎田中学校入学後は相撲を中断して野球部に所属していたが、中学2年時に体が大きくなりすぎて動きが悪くなったので柔道部の顧問から誘われて柔道に転向[4]。実質野球部員失格を言い渡されたようなものであったため当初柔道部の活動には乗り気ではなかった。高校進学を間近にした頃、近所に住んでいた人物が大分県立宇佐産業科学高等学校の卒業生である垣添の父と知り合いである縁から当時身長170cm、体重90kgの巨体を持っていた松谷を同校相撲部の真砂昌史監督に紹介し、これを受けて松谷は本格的に相撲を行うようになった[4]。相撲に転向した背景には福岡の柔道のレベルの高さもあり、中学の県大会でも勝てない自分が高校から柔道を本格的に行っても遅いと松谷は思っていた[6]。他にも柔道や相撲の腕を買われて数校から勧誘があり、初めは自宅から遠いことを気にして宇佐産業への進学を躊躇していたが「練習後、責任を持って送り届けます」と真砂が申し出たことが決め手となったといい、実際に高校時代には真砂を始めとして指導者達が交代で送迎を担当していた[4]。高校2、3年と選抜高校相撲宇佐大会に出場し、ベスト8になったが共に琴奨菊に敗れている(琴奨菊とは同学年かつ同郷)。

駒澤大学仏教学部[注 2]に進学し、1年生から団体戦のレギュラーを務めた。大学在学中には国民体育大会の成年男子Aで準優勝(優勝は下田圭将)などの実績を残した。こうした活躍ぶりに着目した数多くの部屋から入門の勧誘を受ける。その中でも、最初に声を掛けてくれた松ヶ根親方(元大関若嶋津)の「外国人力士を倒せるよう一緒に頑張ろう」との言葉で入門を決意し、松ヶ根部屋へ入門して2006年3月場所において前相撲から初土俵を踏んだ。入門の意志を家族が聞いたのは大学4年の正月に帰省した時であり、母は松谷の決意に反対せず送り出した[4]。後年語ったところによると「小さい頃は実業家になりたかった。今はともかく、大学時代には相撲で稼いでから実業家になろうと思っていた」という[5]

序二段へ昇進した2006年7月場所では7戦全勝の成績を挙げて優勝決定戦まで進出し、優勝決定戦で境澤尾上部屋)に勝利して序二段優勝を果たした。2007年3月場所に幕下へ昇進し(本人としてはを結える前に幕下に昇進したかったと語っている)、その3月場所で6勝1敗と大きく勝ち越し、翌5月場所においても6勝1敗と大きく勝ち越した。翌7月場所は東幕下9枚目の位置で3勝4敗と負け越し、入門してから初となる負け越しを記録した。

2010年3月場所では東幕下筆頭の位置で4勝3敗と勝ち越しを決め、翌5月場所において新十両へ昇進した。駒澤大学からの十両昇進は尾形以来33年ぶり2人目、築上町出身の関取は2009年に十両昇進した琴禮佐渡ヶ嶽部屋)以来3人目となった。

2010年8月12日大相撲野球賭博問題の警視庁捜査により同じ松ヶ根部屋所属の三段目・若力堂と共に野球賭博に関与していたことが明らかになり、松ヶ根親方らと記者会見で謝罪した。2010年6月に行われた相撲協会の2度の調査に対して賭博申告をしていなかったため当初の方針通り解雇の可能性もあったが温情的に本場所の出場停止2場所(2010年9月場所・11月場所)の処分に落ち着き、その影響により十両から幕下へと陥落した。後年では刑事事件を起こしながら協会の聴取に嘘の回答をした場合、大砂嵐の例によって解雇や引退勧告が相場とされるため、現在の感覚では甘い処分と言える。破門を避けてもなお自ら角界から身を引くことも考えたが母から「ここでやめたら支えてくれた人に恩返しもできない」と説得されて思い直し「稽古していい相撲を取ること」に集中した[7]

西幕下51枚目の位置まで番付を落とした謹慎明けの2011年1月場所では、幕下力士を寄せ付けない強さを見せ、7戦全勝の成績を挙げて幕下優勝を果たした。翌5月技量審査場所でも7戦全勝の成績で幕下連覇を達成した。翌7月場所では大相撲八百長問題により多くの力士が引退した影響もあり、十両への復帰を果たすと共に自己最高位の東十両3枚目まで番付を大きく上げた。その7月場所では7勝8敗と負け越したものの、翌9月場所では東十両5枚目の位置で11勝4敗と大きく勝ち越した。翌11月場所において新入幕を果たし、同時にそれまで「松谷」という本名で取っていた四股名を「松鳳山」と改めた。駒澤大学元総長の大谷哲夫が提示した複数の案から両親と相談して選んだもので[8]、「鳳」は大谷が住職を務める鳳仙山長泰寺山号に因んでいる[9]

2011年11月場所の番付は東前頭15枚目。この場所では10勝5敗という好成績を挙げた。自己最高位となる西前頭3枚目の位置まで番付を上げた2012年7月場所では、10日目まで3勝7敗の成績だったものの、11日目から5連勝して8勝7敗と勝ち越した。東前頭筆頭へ番付を上げた翌9月場所では、4日目に大関・琴欧洲を破ったものの、最終的に7勝8敗と負け越した。翌11月場所は3大関(琴欧洲・把瑠都稀勢の里)を破る活躍を見せ、10勝5敗の好成績を挙げて自身初となる敢闘賞を受賞した。

2013年1月場所では新三役(西小結)に昇進した。この場所からしばらく種子島酒造から贈られた黄金の締め込みを本場所に採用していた[10]。場所2日目のNHK大相撲中継では北の富士から黄金の締め込みについて「肌が黒いから、よく似合いますよね。白鵬がしたときは何となくしっくりこなかったんですよね」と評された。この場所は7日目に大関・琴奨菊を破ったが最終的に4勝11敗と大きく負け越した。平幕へ降下した翌3月場所は序盤好調だったが、終盤にかけて負けが込み7勝8敗と2場所連続で負け越した。翌5月場所は14日目に大関・琴欧洲を破り、最終的には8勝7敗と勝ち越した。翌7月場所は3場所ぶりの小結(東小結)復帰。この場所は7勝8敗と負け越したが、14日目に大関・琴欧洲を2場所連続で破った。東前頭筆頭へ下がった翌9月場所は2日目に横綱日馬富士を押し出して横綱戦での初勝利、並びに初金星を獲得した[注 3]


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