松竹歌劇団
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1955年「東京踊り」フィナーレ

松竹歌劇団(しょうちくかげきだん)は、1928年から1996年まで日本に存在したレビューおよびミュージカル劇団。

出演者が女性で占められる「少女歌劇」の系譜に属する。松竹を母体として東京・浅草に本拠を置き、1930年代には東京一のレビュー劇団として、兵庫県宝塚市を本拠とする宝塚少女歌劇(宝塚歌劇団)と人気を競った。太平洋戦争を経て、戦後は本拠地・国際劇場の大舞台を活かした「グランド・レビュー」を売りに人気を保ったが、1960年代ごろより徐々に低迷、1990年代にはミュージカル劇団へ転向するも定着せず、1996年をもって解散した。「Shouchiku Kageki Dan」の頭文字をとったSKDの通称でも知られた。大阪府に現存するOSK日本歌劇団(旧・大阪松竹歌劇団)は姉妹劇団である。
歴史
前史大谷竹次郎と白井松次郎。

1914年、阪急グループ創業者・小林一三により、兵庫県宝塚市の宝塚新温泉パラダイス劇場に宝塚少女歌劇団が結成され、日本における「少女歌劇」の歴史が始まった[1]。1918年には広島県広島市に羽田少女歌劇団、1919年には大阪府大阪市に琵琶少女歌劇団、1921年同じく大阪市に浪華少女歌劇団が結成され[2]、少女歌劇の波は徐々に拡大していった。

1921年、宝塚音楽歌劇学校の講師であった楳茂都陸平(うめもと・りくへい)が宝塚公会堂で舞踊『春から秋へ』を上演、ときの大阪松竹社長・白井松次郎がこれを観賞し、松竹版少女歌劇・「松竹楽劇部」設立への大きな影響を受ける[3]。1922年4月、白井は宝塚から楳茂都や作曲家の原田潤らを招き、天下茶屋の松竹合名会社分室内に「松竹楽劇部生徒養成所」を創設。夏までに30名ほどの生徒が集まり、12月に試演ともいうべき『時の踊り』を上演[3]。翌1923年より道頓堀松竹座を拠点に短期公演を中心とした興行をはじめた[3]。当初はお荷物扱いであったものの、1926年4月に上演した『春のおどり』が大好評を博したことにより、以後興行的な軌道に乗った[3]。『春のおどり』は花街風の演し物をレビューにアレンジしたものだったが、1927年、宝塚少女歌劇がフランス式の豪華なレビュー『モン・パリ』を上演すると、松竹楽劇部でも洋舞が大きく取り入れられるようになる[3]。1928年に上演された『松竹座ダンス』において、映画的なテンポ、エロティシズム、巧妙な場面転換といった、「松竹レビュー」の基礎となる要素が確立された[3]
東京松竹楽劇部の設立1929年『松竹座フォーリィズ』における「南京情緒」の場面1920年代末の浅草松竹座レビュー同上

松竹楽劇部公演は、映画上映に併設されたアトラクションという形で上演されていた[4]。1928年8月31日、浅草松竹座が開場した際にも、松竹楽劇部が大阪から上京して公演を行った。この公演『虹のおどり』は東京でも好評を博し、松竹楽劇部支配人・蒲生重右衛門が、白井と大谷竹次郎(東京松竹社長)に対し、東京を本拠とする新たな楽劇部設立を直訴する。これが容れられると蒲生は直ちに東京府下の新聞に新楽劇部の生徒募集広告を出し、これに応じて受験、合格した生徒14名を擁して「東京松竹楽劇部」が発足した[4]

12月には上京してきた大阪松竹の応援という形で、昭和天皇即位にあわせて上演された『奉祝行列』で初舞台を踏む。稽古開始からわずか2カ月であった東京松竹の出演は第一景とフィナーレのみで、いずれもその他大勢の扱いであった[4]。翌年もしばらく応援出演が続いたが、11月末より『松竹座フォーリィズ』で初の東京松竹単独公演を果たす[4]。さらに12月には『松竹座ダンス』を単独上演し、以後東京松竹は大阪松竹から自立していった[4]
レビュー全盛期宝塚との「レビュー合戦」の幕を開けた『らぶ・ぱれいど』。ペアとなっているのは吉川秀子と水の江瀧子。

1930年、第1期生の水の江瀧子が少女歌劇の生徒としてはじめて男性風に断髪し、以後「男装の麗人」として人気が急上昇する[5]レビュー人気が高まる一方、いたずらに扇情的であるとして警察から演出内容の指導通達も受けたが、翌1931年には歌舞伎座において、『ラーマーヤナ』を脚色した『奪われし我が愛しの妻よ』をもって、来日中のタイ国王・ラーマ7世の台覧に供され、社会的信用を高めた[5]。楽劇部長である蒲生重右衛門による積極的な運営もあり、東京松竹楽劇部は東京名物といわれる一大劇団となり、本拠の浅草松竹座のみならず、歌舞伎座東京劇場等でも優秀な興行成績を挙げた[6]

1932年10月、東京進出を図る宝塚少女歌劇が新橋演舞場で『ブーケ・ダムール』公演をはじめ、これに対抗した東京松竹も築地川をはさんだ対岸の東京劇場で大作『らぶ・ぱれいど』を上演[6]。築地川両岸で松竹と宝塚による集客競争・通称「レビュー合戦[7]」がはじまった。両者は「踊る松竹、歌う宝塚」と対比され[7]、この争いは宝塚が東京における新拠点・東京宝塚劇場へ移るまで続いた[7]。なお、『らぶ・ぱれいど』の頃に、東京松竹楽劇部は名称を「松竹少女歌劇部(SSK)」と改めた[6]1937年当時の主な出演者・スタッフ[注 1]

1933年6月、楽団員による待遇改善要求に端を発し、水の江瀧子を組織委員長とする労働争議・通称「桃色争議」が起こる。翌月の妥結後に蒲生重右衛門は退陣、従来松竹座チェーンの傘下にあった松竹少女歌劇部は、松竹本社直属の松竹少女歌劇団となり、同時に附属の団員養成機関「松竹少女歌劇学校」が設立された[6]。争議首班の水の江は一時謹慎させられたが、10月末の『タンゴ・ローザ』から復帰。同作は松竹歌劇はじまって以来の大ヒットとなり、はじめて全団員を擁しての関西公演を行うなど、計160回公演という当時の少女歌劇における最高記録をつくった[6]。さらに人気を増幅させた松竹少女歌劇は、1934年9月より本拠地を浅草松竹座から新宿第一劇場に移した[6]

東京宝塚劇場の出現以来、松竹少女歌劇は積極攻勢を図り、『タンゴ・ローザ』以降は関西、中国、九州各地方へも巡業、先輩格の大阪松竹を本拠地に押し込める形になりつつも、全国的人気を獲得した[8]。このころの松竹少女歌劇は水の江瀧子とオリエ津阪を二枚看板としていたが、とくに「ターキー」の愛称で知られるようになった水の江は、「レビュー界空前の人気を独占し」、「ターキー時代を現出している」と評される[9]ほどの高い人気を誇った。またスタッフでは演出の青山杉作、振付の青山圭男、装置の三林亮太郎を三本柱として、「レビューの王様」とも呼ばれた名演出家・白井鐵造を擁する宝塚と互角の争いを演じた[10]

当時は各スターの私設後援会が林立し、会員2万人を擁した「水の江会」を筆頭に、各後援会が競い合ってスターに声援を送り、舞台へテープや花束を投げ、またスターもこれに呼応して、劇場内は異常な興奮状態を示していた[6]。しかし1937年、定員3600人を誇り「マンモス劇場」とも呼ばれた新本拠地・国際劇場が開場されると、その巨大さゆえに従来の松竹少女歌劇を支えた「スターとファンとの間の交歓」という魅力は失われていくことになる[11]

国際劇場正面入口

国際劇場の俯瞰全体像

太平洋戦争終結まで日独伊三国同盟を題材とした『フランス起てり』(1941年)。舞台後方にナチス鉤十字旗が並ぶ。

1938年3月、松竹本社の機構改革が行われて新たに「歌劇部」が発足し、東京・大阪の両少女歌劇が一元管理されることになった[11]。歌劇部長の大谷博は両劇団を積極的に交流させたが、時局の戦時色が強まったこともあり本格公演は少なくなっていき、少女歌劇人気は低落傾向を示していった[11]。作品も時局が反映されたものが作られはじめ、日支事変を題材とした『ますらを』(1937年)が上演されたのち、翌1938年の『東京踊り』には「さくらかちどき」という副題が付けられ、「祖国のために」というバレエも併演された[12]。1939年には『防共の誓い』を上演。そして同年9月の『ぶるう・むうん』をもって少女歌劇の単独公演はいったん休止されることになる[11]

以後はかつてのごとく映画上映に併演されるアトラクションを建前として公演を続けたが、1941年末に太平洋戦争が勃発すると、上演内容についての制限も強化されていった[11]。翌1942年にはフィリピン方面の将兵慰問興行を3カ月にわたり行った[11]。同年にはオリエ津阪、1943年には水の江瀧子と、全盛期を支えた男役スターが相次いで退団。1944年3月には決戦非常措置要項により国際劇場が閉鎖され、風船爆弾の製造工場として転用された。ここまでに退団者も相次いでいたことから、同31日をもって松竹少女歌劇団はいったん解散。慰問興行を目的とした「松竹芸能本部女子挺身隊」に改められ、内外で慰問興行を打った[11]。1945年には「松竹舞踊隊」として活動、8月に大船新生劇団と邦楽座で興行中に終戦を迎えた[11]
戦後の国際劇場レビュー1951年「秋のおどり」アトミックガールズ1952年「秋のおどり」"スリーパールズ"のメンバー。左から草笛光子・深草笙子・淡路恵子

終戦後の10月、松竹舞踊隊は30名の団員を擁して「松竹歌劇団」として再出発。同時に新団員の募集も行い、11月には戦後第1期生となる34名が新入団した[13]。翌1946年より、水の江などかつての関係者が所属する劇団との合同という形をとりながら公演を再開し、7月には戦後初の単独公演を行い、立ち直りへ向かった[13]。1947年秋には東京大空襲で損壊していた国際劇場が修築され、復興記念公演を行った[13]。1948年にはかつて毎年恒例となっていた『東京踊り』を復活させた[13]。1949年ごろからはその人気が再燃、ブロマイド販売の最大手として知られた浅草マルベル堂においては、川路龍子小月冴子、曙ゆりといったスターの品が100万枚以上を売り上げた[14]

1950年代にはいると国際劇場の巨大さと舞台機構を活かした演出法が編み出されていき、戦前とは異なる人海戦術を駆使した大規模ショーとしての松竹レビューが定着[13]。国際劇場は観光バスが大挙して訪れる浅草の新名所となった[13]。1957年には、その歴史を通じて最多となる265万人の観客動員を記録した[15]

数々の「チーム」が設立されたのもこの頃の特徴である[13]。1951年には装置転換の際に起こる間延びを解決するため[16]、特にスタイルの良い40名を選抜したラインダンスチーム「アトミック・ガールズ」を創設[13]。1956年には女性のグラマラスさを前面に押し出したチーム「スリー・パールズ」を刷新し[17]、「エイト・ピーチェス」が創設された。エイト・ピーチェスはダンス技術に優れた者を選抜した8人のチームで、官能的なダンスを売り物とし、「所属することが栄誉」とされる名チームとなった[16]。アトミック・ガールズとエイト・ピーチェスは1956年に芸術祭奨励賞(大衆芸能部門)を受けている[17]。機構面では1959年の『夏のおどり』において、地下に水槽を設置し、舞台後方に6段落としの瀑布を創出したことが特筆される[17]。また、屋台崩しなども得意演出であった[18]
レビュー劇団としての終焉

1960年代半ば以降[19]、松竹歌劇は娯楽の多様化とミュージカルの人気に押されて低迷をはじめる[15]。座付作家の不在により過去の作品に何度も頼ってのマンネリ化もみられはじめた[20]。1960年代には宝塚歌劇も東京での観客数が伸び悩み、東京宝塚劇場の稼働を通年から7カ月に縮小していたが、1974年にミュージカル『ベルサイユのばら』でブームを起こし、勢いを盛り返すことに成功する[21]

松竹歌劇においても団員は自主的にミュージカルに取り組もうとしていた。1970年に団内で結成された「SKD・ドラマ・グループ」がそれである。演劇界にミュージカル・ブームが起こるなか、団員の間でもこれを上演したいという希望が高まり、会社が「演技力付与と向上」を目的に後援したものだった[22]。しかし公演回数は多くなく、第1回試演『恋伝授手習鑑』は同年の『秋のおどり』の休演日に行われ、これを含めた1977年までの公演は、『11人囃子』(1974年、試演1日)、『女だけのイヨネスコ』(1975年、公演3日)、『女だけのカモレッティ』(1977年、公演4日)の4作品9日間で、作品傾向も難解なものばかりだった[22]


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