松竹大船
[Wikipedia|▼Menu]

松竹大船撮影所松竹大船撮影所前
種類映画スタジオ
本社所在地 日本
247-0056
神奈川県鎌倉市大船6-1-1
設立1936年1月15日
業種サービス業
事業内容映画製作
所有者松竹
テンプレートを表示

松竹大船撮影所(しょうちくおおふなさつえいじょ)は、1936年1月15日から2000年6月30日まで神奈川県鎌倉市大船にあった映画スタジオ現代劇を担当していた。
概要
蒲田からの移転

1936年(昭和11年)1月[1][2]、それまで松竹東京市蒲田区(現・東京都大田区)の蒲田撮影所で撮影をしていたが、町工場の多い蒲田では騒音がトーキーの撮影に差し障るという理由から大船に移転する。当時は神奈川県鎌倉郡大船町(1948年(昭和23年)6月鎌倉市に編入)であり、一帯は元競馬場跡地であった[3]。大船ではハリウッドのような世界的映画都市建設を目指し、宅地開発を行うなど新しい町づくりも始められた[4][5]。実業家菅原通済が移転を支援し地元と交渉を進めた[4]

1月16日朝、監督や俳優、松竹の幹部や従業員たちを乗せた乗用車とボンネットバス約40台の車列は、蒲田を出発し、六郷橋、横浜を経由して大船に到着した[4][6]。開所式では大谷竹次郎社長が「大船映画も当然日本映画を代表するものでなければならない」と語った[6]

移転時には、新聞社から寄贈された桜の苗木1200本を植樹した[7]。そのため桜の名所として撮影所で毎年のように桜祭りが開催された[7]
誕生した作品

スタジオでは、同時に8作品の映画撮影が可能であり[4][8]、事務所、現像場、録音室など49棟の施設を有し、世界有数の規模だった[8]。移転後の初製作映画は1936年4月に公開された『家族会議』である[1][4][9]

移転翌年の1937年に日中戦争が始まり、1938年には興行時間の短縮などを定めた映画法が施行され[4]、大船でも戦意高揚映画の撮影が始まった[4]。「愛染かつら」(1938年公開)の大ヒットで、大船撮影所の名前が全国に知られるようになった[10]

小津安二郎もこの撮影所で製作を行い、1936年に『一人息子[11]、戦後の1949年には『晩春』、1951年に『麦秋』を発表。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:77 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef