松浦武四郎
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松浦武四郎。首から下げているのは、武四郎がコレクションしていた古物で自作したもの。

松浦 武四郎(まつうら たけしろう、文化15年2月6日1818年3月12日〉 - 明治21年〈1888年2月10日)は、江戸時代末期(幕末)から明治にかけての探検家浮世絵師著述家好古家。名前の表記は竹四郎とも[1]は弘[1]。雅号は北海道人(ほっかいどうじん)、多気志楼など多数[1]蝦夷地を探査し、北加伊道(のちの北海道)という名前を考案したほか、アイヌ民族アイヌ文化の研究・記録に努めた。
経歴制作に携わった「北海道国郡全図」(1869年発行)

文化15年(1818年)、伊勢国一志郡須川村(現在の三重県松阪市小野江町)にて郷士・松浦桂介ととく子の四男として生まれる[注釈 1][1]。松浦家は、肥前国平戸松浦氏の一族で中世に伊勢国へ移住してきたといわれ、別書では、代々百姓で、父・桂祐の次男として生まれたとしている[5]。父親は庄屋を営んでおり、比較的恵まれた中、武四郎は13歳から3年間、平松楽斎(漢学者・伊勢津藩士)のもとで学び[6][7]猪飼敬所梁川星巌らの知己を得るなど[8][9]、後の探検家として役に立つ文化的な素養を身に付けたとされる。

山本亡羊本草学を学び、16歳から日本国内の諸国をめぐった。天保9年(1838年)に平戸となり文桂と名乗るが、故郷を離れている間に親兄弟が亡くなり天涯孤独になったのを契機に[8]弘化元年(1844年)に還俗して蝦夷地探検に出発する。1846年には樺太詰となった松前藩医・西川春庵の下僕として同行し[8]、その探査は北海道だけでは無く択捉島樺太にまで及んだ。蝦夷では詩人の頼三樹三郎と旅することもあった[8]安政2年(1855年)に江戸幕府から蝦夷御用御雇に抜擢されると再び蝦夷地を踏査し、「東西蝦夷山川地理取調図」[10] を出版した。明治2年(1869年)6月に「蝦夷開拓御用掛[注釈 2][11]」となり、蝦夷地に「北海道」(当初は「北加伊道」[12])と命名した。更にアイヌ語の地名を参考にして国名・郡名を選定している[注釈 3]

また、武四郎は単なる地理や自然の記録に留まらず、アイヌ民族やその文化に対しても敬意を表しており、民族と文化を守るために、まずアイヌ文化を正しく知って、理解してもらうことが必要として、アイヌ民族・文化の紹介を熱心におこなった。武四郎が出版した『蝦夷漫画』ではアイヌの文化がありのままに紹介されている。また、武四郎は、圧政に苦しむアイヌ民族の窮状を見聞きしたことで、幕府に対し、開発の必要性はもちろん大事であるが、それよりもまず今日のアイヌ民族の命と文化を救うべきであると、調査報告書の随所で訴えた[14]。『近世蝦夷人物誌』では、百数十人のアイヌの人々が実名で登場し、アイヌ民族の生き様を紹介した。しかし、ここでは松前藩や和人による圧制もそのまま記されていたことから、武四郎の生前には出版が許可されなかった。武四郎の訴えにより、場所請負制は1869年(明治2年)9月に明治政府の島義勇によって一旦は廃止が決定されたものの、場所請負人や商人らが反発したため、同年10月「漁場持」と名を変えて旧東蝦夷地(太平洋岸および千島)や増毛以北の旧西蝦夷地(日本海岸およびオホーツク海岸)で存続が決定。これに失望した武四郎は、翌明治3年(1870年)に、開拓使の職を辞すると共に、従五位の官位を返上した[15]。この間、北海道へは私人として3度、公務で3度の合計6度赴き[12]、およそ150冊の調査記録書を遺した[13][16]

2022年4月29日に放送された「NHK歴史発掘ミステリー」の番組では、武四郎が北海道の地名9,000をインタビューによって収集したこと、10,000キロを踏破したこと、その歩行は通常の倍の踏破力であり、独特の疲れにくい古武術の「神足歩行術」という歩行術を会得していたこと、などが磯田道史などによって語られた。

余生を著述に過ごしたが、死の前年まで全国歴遊を続けたと言われている。武四郎は天神(菅原道真)を篤く信仰し(天神信仰)、全国25の天満宮を巡り、鏡を神社に奉納した[8]。好古家としても知られ、縄文時代から近代までの国内外の古物を蒐集し、64歳のときには、自分を釈迦に見立て古物コレクションに囲まれた「武四郎涅槃図」を河鍋暁斎に描かせている[17][18]


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