松沢 一鶴
松沢一鶴(1936年頃/36歳前後)
選手情報
フルネームまつざわ いっかく
ニックネームカクさん[1][2]
国籍 日本
泳法神伝流/自由形
所属第一高等学校→東京帝国大学
生年月日 (1900-09-07) 1900年9月7日
生誕地東京府東京市京橋区
没年月日 (1965-01-10) 1965年1月10日(64歳没)
死没地東京都
獲得メダル
男子競泳
日本
極東選手権
金1921440yd自由形
金1923800mフリーリレー
銀19211マイル自由形
銅1923440yd自由形
銅19231マイル自由形
銅1923400m自由形
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松沢 一鶴(まつざわ いっかく、1900年9月7日 - 1965年1月10日)は、日本の競泳選手、指導者。元東京都教育委員会委員長。位階は正五位。後に「東京式」と呼ばれることとなる1964年東京オリンピックの閉会式の演出を手掛けた人物でもある[3]。 東京府東京市京橋区生まれ。東京市立泰明小学校、東京府立第一中学校、第一高等学校を経て、1927年(昭和2年)に東京帝国大学理学部化学科を卒業した[4]。この学歴系統は日本泳法の神伝流を継承しており、松沢も神伝流を習得し、水泳選手として鳴らした[5]。1921年(大正10年)、第5回極東選手権競技大会(上海)440ヤード自由形で優勝[4]。1923年(大正12年)の第6回極東選手権競技大会(大阪)では日本水泳チームの主将として臨んだ[4]。 1932年ロサンゼルスオリンピック、1936年ベルリンオリンピック日本代表水泳監督を務めた後[4]、1940年東京オリンピックの開催に尽力するが、日中戦争の激化に伴い、日本はオリンピックを返上し、実現されなかった[3]。1941年(昭和16年)には大日本体育協会事務局長に就任し、1943年(昭和18年)まで務めた[4]。松沢が局長に就任した1941年(昭和16年)は大規模な競技会の中止が申し渡された年であり、退任した1943年(昭和18年)はあらゆる大会が原則禁止された年であった[6]。 松沢は官僚とスポーツを巡って議論を戦わせ、スポーツの理念を説き続けたが、大会中止の流れを止めることはできず、ついには国に抵抗して密かに記録会を開催した[6]。この記録会は『東日本記録会』と題して東京市王子区の名主水泳場(現在の東京都北区の名主の滝公園に存在した25mプール)にて1941年9月に実施され[7]、この大会には1936年ベルリンオリンピックに100m背泳ぎで出場した児島泰彦らが出場し、児島はオリンピックでマークした自己ベストを1秒以上更新した[6]。 1943年(昭和18年)、7万人の学生が学徒出陣に招集され、10月21日に明治神宮外苑競技場で挙行された出陣学徒壮行会の模様を松沢は神宮競技場で見守っていた[3]。最終的に松沢は14人の教え子を戦争で失った[6]。 戦後も、「水泳日本」の再建に尽力し、日本水泳連盟の要職を務め、日本水連シンクロ普及部長を務めていた。娘の松沢洋子
経歴
1964年東京オリンピック大会組織委員会参事などに就任した[4]。