松永氏(まつながし、まつながうじ)は、日本の氏族である。大和で戦国大名として活躍した、松永久秀の系統が著名である。 松永氏 松永氏は祖先の武内宿禰から16世の孫紀朝臣真済が若狭国司となり、同国遠敷郡松永荘より紀松永と称したことに始まるとされる。これによると紀氏の流れということになるが、戦国大名の松永氏は藤原氏または源氏を自称している。また、大宰府の属員・大蔵氏系原田氏の末裔と言う説もあって、はっきりしない。 この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
大和松永氏
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本姓出自不詳
家祖松永久秀
種別武家
主な根拠地大和国
著名な人物松永久秀
凡例 / Category:日本の氏族
発祥
松永久秀の台頭.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}
出典検索?: "松永氏"
大和松永氏は、松永久秀を祖とする戦国大名であるが、久秀は出自が不詳とされていたが、近年の研究においては山城の石清水八幡宮近辺の氏族である可能性が指摘され、そのために同じ山城出身の美濃を乗っ取った斎藤道三と旧知の間柄にあったという説も存在する。
久秀は細川氏に仕えていた三好長慶の右筆となり、京都奉行から三好氏の宰相となる。軍事面や築城において活躍し大和に遠征して多聞山城を築き、永禄3年(1560年)には陪臣の身でありながら主家同様に室町幕府の相伴衆にまで列せられている。弟の松永長頼も軍人として活躍し丹波を実質的に支配するまでになった。
翌永禄4年(1561年)には長慶の弟である十河一存が急死し、永禄6年(1563年)には長慶の子である三好義興が死去しており、久秀の毒殺説が存在する。また、永禄7年(1564年)の長慶の弟・安宅冬康の死は久秀が長慶に讒言して殺させたものであり、久秀は三好氏の乗っ取りを企んでいたという。
同年、長慶も病死して三好氏が弱体化すると、永禄8年(1565年)には、13代将軍足利義輝を殺害する(永禄の変)。そして三好三人衆と対立しながらも畿内において台頭するが、永禄11年(1568年)には義輝の弟である足利義昭を新将軍として奉じた尾張の織田信長が上洛すると、久秀は名器・九十九髪茄子を信長に献上して降伏し、信長の家臣となっている。
信長は将軍義昭を通じて畿内において影響力を強めるが、元亀年間に信長と義昭は敵対し、義昭は浅井長政・朝倉義景や石山本願寺などの畿内勢力をはじめ甲斐の武田信玄など遠方勢力を迎合し信長包囲網を形成する。久秀は信玄とも外交を通じ信長包囲網に呼応するが[1]、元亀4年(1573年)には信玄の急死により武田氏は西上作戦から撤兵し、信長は反信長勢力を撃破し、義昭は京から追放され室町幕府は滅亡、久秀は再び信長に服従している。
天正年間には安芸の毛利輝元の下へ亡命した義昭が再び反信長勢力を迎合し、天正5年(1577年)にはこれに応じた越後の上杉謙信の能登・加賀侵攻に呼応して、再び信長に対抗し信貴山城に立て籠もる(信貴山城の戦い)。
しかし、織田軍は手取川の戦いで謙信に敗北していたものの十分な余力を残していたため、久秀は各個撃破の戦略を採った織田軍にあえなく追い詰められた。久秀は信長がかねてから所望していた古天明平蜘蛛を抱いて爆死したという。また久秀の嫡男である松永久通も自害しており、長頼も永禄8年に反抗勢力に討ち取られていたため、戦国大名としての松永氏は完全に滅亡した。
一方で出家して放浪中であった久秀の子松永永種は存命しており、永種の子である松永貞徳は俳人として名を残したという。なお、尾張藩に松永国華という儒者もいたが、この人物も子孫とされている。他にも、久秀の甥で長頼の子・内藤如安はキリシタンとして名を残したが、江戸時代に禁教令に触れて国外追放となっている。
また、『北肥戦誌(九州治乱記)』の記述であるが、龍造寺隆信に気にいられ光照寺の住持となった「空圓」という旅僧がおり、自らの氏素性を周囲に明かさないでいたのであるが、天正5年12月に隆信が千々石直員(子の澄員の間違いか?)の城を攻める場に同行した際、龍造寺勢が崩れかかると自ら長刀を掴んで敵勢に討ち入り、「我は松永弾正(久秀)が弟なるぞ。出家とて侮るなかれ」と発して、奮戦し討ち死にしたとある。 注:家系には異説もあり、代表的な説を記載するにとどめる。
大和松永氏一族
松永久秀【一】
松永久通【二】- 久秀の嫡男
松永長頼 - 久秀の弟
内藤貞勝 - 長頼の嫡男
内藤ジョアン - 長頼の次男
松永孫六 - 久秀の甥
松永貞徳 - 俳人。久秀の孫。
松永尺五 - 儒学者。貞徳の子、久秀の曾孫に当たる。
水谷御前 - 久秀の娘。大宮景連の妻。
壱枚御前 - 久秀の親類。北畠政成の妻。
海老名友清 - 久秀の娘婿。
阿古御局 久秀の孫
系譜