凡例松永 久秀
松永久秀像(高槻市立しろあと歴史館蔵)
時代戦国時代 - 安土桃山時代
生誕永正5年(1508年)[1]
死没天正5年10月10日(1577年11月19日)[2]
改名久秀→道意(号)
別名霜台、松永弾正(通称)
戒名妙久寺殿祐雪大居士
墓所奈良県王寺町の達磨寺
京都府京都市下京区の妙恵会墓地
奈良県生駒郡三郷町
官位従四位下、弾正忠・山城守・弾正少弼
幕府室町幕府:相伴衆
主君三好長慶→義継→足利義昭→織田信長
氏族松永氏(藤原氏、源氏)
父母父:不詳、母:不詳
兄弟久秀、長頼、某(松永孫六・孫四郎父)[3]、野間長久
松永 久秀(まつなが ひさひで、永正5年〈1508年〉- 天正5年10月10日〈1577年11月19日〉)は、戦国時代・安土桃山時代の武将、大和国の戦国大名である。官位を合わせた松永 弾正(まつなが だんじょう)の名で知られる。弟に長頼、嫡男に久通。 初めは三好長慶に仕えたが、やがて三好政権内で実力をつけ、室町幕府との折衝などで活躍した[6]。久秀は長慶の配下であると同時に交渉の一環として室町幕府第13代将軍・足利義輝の傍で活動することも多く、その立場は非常に複雑なものであった[7]。また、長慶の長男・三好義興と共に政治活動に従事し、同時に同じ官位を授けられるなど主君の嫡男と同格の扱いを受けるほどの地位を得ていた[8]。 長慶の死後は三好三人衆と、時には協力し、時には争うなど離合集散を繰り返し、畿内の混乱する情勢の中心人物の一人となった。織田信長が義輝の弟・足利義昭を奉じて上洛してくると、一度は降伏してその家臣となる。その後、信長に反逆して敗れ、信貴山城で切腹もしくは焼死により自害した[注釈 1][注釈 2]。 茶人としても高名であり、茶道具と共に爆死するなどの創作も知られている[9]。 永正5年(1508年)生まれ[1]。出身については、阿波国・山城国西岡(現在の西京区)・摂津国五百住(現在の高槻市)の土豪出身など諸説がある。長江正一は西岡出身の商人の生まれで、斎藤道三と同郷であったと断定している[注釈 3]。 しかし、美濃の国盗りは道三一代のものではなく、その父の長井新左衛門尉(別名:法蓮房・松波庄五郎・松波庄九郎・西村勘九郎正利)との父子2代にわたるものではないかと思われる資料が発見[11]されたことから、同郷だと当てはめるのは困難だとされ[12]、2012年頃からは摂津国五百住の土豪出身の説も大きくなっている[13]。また、阿波国出身説は、同国市場犬墓村(現・徳島県阿波市市場町犬墓)旧家の由緒書に基づくが、長慶の父・三好元長が阿波国から渡海し畿内入り戦闘時の史料に松永姓の武将はいないし、その諸将は後にほとんどが、三好実休に従い、阿波へ帰国しているので、史実性はなくなっている[14]。 天文2年(1533年)か天文3年(1534年)頃より、細川氏の被官・三好長慶の右筆(書記)として仕えたと言われている。史料における初見は、天文9年(1540年)[15]といわれている。 天文9年(1540年)6月9日、長慶が西宮神社千句講用の千句田二段を門前寺院の円福寺、西蓮寺、東禅坊の各講衆に寄進する内容の書状を33歳の久秀が弾正忠の官名で伝達している[15][16][17]。 同年12月27日、堺の豪商・正直屋樽井甚左衛門尉の購入地安堵判物にも久秀が副状を発給しており、このころ奉行の職にあったとみられる[18][16]。 史料上の初見の時期からも、三好長慶が、それまでの三好勢のように、畿内の争いで一時敗れても阿波に帰らず、越水城主として摂津下郡半国の守護代になり、初めて畿内での統治を行った際に外様の家臣として取りたてられ、活動していたと見られる[19]。 天文11年(1542年)、三好軍の指揮官として、木沢長政の討伐後なおも蠢動する大和国人の残党を討伐するため、山城南部に在陣した記録があり、この頃には官僚だけでなく武将としての活動も始めていた[17][20]。長慶が細川晴元の家臣であった頃から仕えていたようだが、本格的に台頭してくるのは長慶が晴元を放逐して畿内に政権を樹立する頃からである[21]。 松永久秀の抜擢は、三好政権における人事の特殊さを表していると指摘される[22]。
概要
生涯
出自と登場
久秀の抜擢
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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