片山 広子(片山 廣子、かたやま ひろこ、1878年〈明治11年〉2月10日 - 1957年〈昭和32年〉3月19日)は、日本の歌人、随筆家、アイルランド文学翻訳家(松村みね子名義)。 外交官・吉田二郎
生涯
短歌の作風は、「近代短歌史上類例の静謐にして孤独、高貴にして率直誠実な霊魂の響き」(藤田福夫)と評されているが、生前の明治・大正期の画壇では正当に評価されなかった[2]。
また、松村みね子の筆名で、ジョン・ミリントン・シング、レディー・グレゴリー、W・B・イェーツ等のアイルランド文学を中心に翻訳も行う。アイルランド文学を本格的に日本に紹介した先駆的存在だったが、当時は一部の人にしか知られていなかった[2]。
芥川龍之介晩年の作品『或阿呆の一生』の37章で「才力の上にも格闘できる女性」と書かれ、『相聞』で「君」と歌われたのは片山広子の事だと言われている。堀辰雄の『聖家族』の「細木夫人」、『菜穂子』の「三村夫人」のモデルとも言われている[3][4]。
晩年の随筆集『燈火節』で、1954年度日本エッセイスト・クラブ賞を受賞した。墓所は染井霊園。
鶴岡真弓は、詩歌の創作と翻訳を通して日本語表現に新たな息吹をもたらし、日本語の可能性を広げた人物と高く評価している[2]。 若い頃から大の写真嫌いで通しており歌会で集合写真を撮影する際にはそっと席を外したり、誘われると声を荒げて強く拒絶することもあったという。現存する写真としては見合い用に撮影した20歳の時のもの、長男達吉を抱いた23歳の時のもの、遺影にも使われた『現代短歌全集 第19巻』掲載の51歳の時のもの3枚しか確認されていなかった[5]。
家族
夫・片山貞治郎、大蔵省を経て、日本銀行理事
1871生- 1920年(大正9年)3月14日没。1899年(明治32年)に広子と結婚。50歳で死去。
息子・片山達吉(筆名:吉村鉄太郎)文芸評論家
1900年(明治33年)6月20日生 - 1945年(昭和20年)3月24日没。東大法科卒業後、川崎第百銀行に就職。堀辰雄・神西清・川端康成らと、「文學」の創刊に参加。「文學」の発行元の第一書房の立て直しに奔走していた1945年(昭和20年)に自宅(南馬込4丁目、馬込文士村の一角)で、心臓病で倒れ45歳で急逝。
娘・総子(筆名:宗瑛)小説家
1907年(明治40年)8月2日生 - 1982年(昭和57年)10月没。兄にしたがって1928年(昭和3年)、「山繭」4月号に『胡生の出発』を掲載。1929年(昭和4年)、「文學」11月号に堀辰雄の推賞を受け『プロテウスの倒影』を掲載後、5年間執筆活動を行う。商工省官僚・アイヌ語地名研究家の山田秀三と結婚後に筆を折った。75歳で死去。堀辰雄の『聖家族』の絹子、『菜穂子』の菜穂子、『ルウベンスの偽画』のお嬢さんのモデルとなった人物で、堀は総子について「彼女の顔はクラシックの美しさを持っていた」と記している。
人物像・エピソード
写真嫌い