松本奎堂
[Wikipedia|▼Menu]

松本 奎堂
『高名像伝 : 近世遺勲. 天』
生誕天保2年12月7日1832年1月9日
三河国碧海郡刈谷
死没文久3年9月25日1863年11月6日
国籍 日本
出身校昌平坂学問所
職業刈谷藩士、志士
テンプレートを表示

松本 奎堂(まつもと けいどう、天保2年12月7日1832年1月9日) - 文久3年9月25日1863年11月6日))は、三河国出身の幕末志士。通称謙三郎、名は孟成、衡。字は士権。奎堂は号。別の号に嬬川、洞仏子がある。

三河国刈谷藩士の子に生まれ、江戸昌平坂学問所で学び俊才として知られた。強い尊王の志を持ち、脱藩して私塾を開いて尊攘派志士と交わった。文久3年(1863年)には天誅組を結成して大和国で挙兵し、吉村寅太郎土佐脱藩)、藤本鉄石岡山脱藩)とともに三総裁の一人となったが、八月十八日の政変後に孤立した天誅組は幕府軍の攻撃を受けて敗退し、9月25日には松本も戦死した(天誅組の変)。
生涯
青年期昌平坂学問所

天保2年12月7日(1832年1月9日)、三河国刈谷(現・愛知県刈谷市)に刈谷藩士松本印南惟成の二男として生まれた。幼い頃から学を好み、10歳にして詩文を作り、神童と称えられた。秀才であったが、三味線胡弓を奏で、美声の持ち主でも上手な芸達者だった。18歳の時に槍術の稽古中に左眼を失明したが、平然としていた。

初め尾張国沓掛村(現・愛知県豊明市)の伊藤両村に師事した。嘉永5年(1852年)には刈谷藩より選ばれて江戸昌平坂学問所に学んだ。昌平坂学問所の舎長(塾頭)となり、刈谷藩江戸藩邸の教授兼侍読に任じられたが、過激な言論のために禁固されている。

松本の出身地である三河国刈谷は徳川家に縁があった。藩主の土井氏譜代大名であり、幕府創業の功を誇る藩風であったが、松本は早くから尊王の志が高かった。徳川家を称賛することを恥とし、久能山東照宮廟を訪れたときに徳川家康の狡猾さを憎み、志を得た暁には墓を暴き骨を鞭打ってやると罵り、居合わせた人々は彼を狂人だと言い合ったという話が伝わる[1]。譜代藩出身で昌平坂学問所で舎長まで勤めた秀才であり、体制側に身をおけば将来は安泰であったところが、他の志士の経歴と比べて異質である。当時もっとも先鋭的な志士の一人であった。
脱藩後

安政2年(1855年)には再び昌平坂学問所で学んだが、勤皇思想の正当性を確信した彼は職を辞して脱藩し、名古屋大坂に出て私塾を開いた。名古屋での塾生に織田完之がいる。松本は四国の博徒の大親分、日柳燕石とは大変懇意であったし、私塾にはいつも何人もの博徒がいたりもした。非常な教養人であったが、型破りな人物でもあった。頼三樹三郎梅田雲浜らと親しく、安政の大獄の時、彼らと共に要注意人物に挙げられていたが、生き延び、次第に勤皇志士の中で重きをなすようになっていった。万延元年(1860年)大坂で松林飯山岡鹿門(岡千仞)と3人で雙松岡塾(そうしょうこうじゅく)を開いたが、京都所司代から問題視されたことで、塾は6か月で閉鎖された。

文久2年(1862年)に京都に上り、薩摩藩国父島津久光の率兵上京を期した平野国臣福岡脱藩)や吉村虎太郎土佐脱藩)らによる浪士の挙兵計画(伏見義挙)に参加したが、寺田屋騒動で薩摩藩の過激派は粛清され、主だった浪士たちも捕縛されてしまった。この時、浪士の中には青蓮院宮(中川宮)を奉じて比叡山に籠ろうという議論があったが、松本は大和国十津川の険に拠ることを主張したという。後年の天誅組の挙兵で、松本はこの案を実行している。

松本は淡路島へ逃れ、同地の勤皇派大地主古東領左衛門河内国の勤皇派大地主水郡善之祐とも親し交わった。後に彼らは天誅組のために莫大な私財をなげうつこととなった。
天誅組の挙兵天誅組の挙兵進路

文久3年(1863年)5月、長州藩は外国船への砲撃を行い攘夷を決行したが、6月には米仏艦隊の反撃にあって敗北した(下関戦争)。松本は吉村らと長州へ赴くと、高杉晋作と国事を論じて藩主毛利敬親に謁見した。

8月13日、孝明天皇の大和行幸の詔が下った。松本は吉村や藤本鉄石岡山脱藩)と議して、行幸の先駆けとして大和国で挙兵することを決めた。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:18 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef