松本俊介
[Wikipedia|▼Menu]

松本 竣介
下落合の自宅兼アトリエにて撮影
(1940年頃)
本名佐藤 俊介
誕生日1912年4月19日
出生地 日本 東京府渋谷
死没年 (1948-06-08) 1948年6月8日(36歳没)
死没地 日本 東京都淀橋区下落合
国籍 日本
運動・動向池袋モンパルナス
芸術分野洋画
代表作『街』1936年
『立てる像』1942年
『Y市の橋』1943年
会員選出組織二科展
活動期間- 1948年
影響を受けた
芸術家モディリアニルオージョージ・グロス野田英夫
テンプレートを表示

松本 竣介(まつもと しゅんすけ、1912年4月19日 - 1948年6月8日[1]は、日本洋画家太平洋戦争が始まる8ヶ月前の1941年(昭和16年)4月、軍部による美術への干渉に抗議して、美術雑誌『みづゑ』437号に「生きてゐる画家」という文章を発表した[2]ことはよく知られている。都会の風景やそこに生きる人びとを、理知的な画風で描いた。
概要

1912年(明治45年)に東京府渋谷に生まれ、その後、岩手県で育った。17歳になる年に再び上京し、その後は東京で絵を描き続けた。一方、文筆活動の活発だった画家でもある。中学にあがった時に聴力を失った。1944年昭和19年)制作の作品以降、名前の文字を、本名の「俊介」から「竣介」に改めた[注 1]

松本竣介はかつて、『みづゑ』昭和16年4月号において発表した文章「生きてゐる画家」[3]と、戦後、画壇の民主化を提言した「全日本美術家に諮る」によって反戦抵抗の画家とみなされた時期があった[4][5]が、戦中の国是だった高度国防国家建設に反対でなかったことや戦意高揚のポスターを描いたことがわかっており[4][6]、現在はそのような視点に立つ人は少なくなった[4]
生涯
幼少期

1912年4月19日[7]に渋谷で生まれた[8][9]。父勝身、母ハナの二男である[7]。2歳年長の兄彬がいた[7]1936年(昭和11年)に結婚する以前の旧姓は「佐藤」(松本禎子と結婚して松本姓となった)。竣介は父親がりんご酒醸造業に参加したのに伴い、満2歳の時に岩手県花巻へ、10歳の時に同県盛岡市へ移った[10][11][12]。盛岡は父勝身の故郷である[12]

実家が豊かだったので岩手師範付属小学校に通い[12][13]1925年(大正14年)小学校を首席で卒業[14]、岩手県立盛岡中学校(現岩手県立盛岡第一高等学校)に1番の成績で入学した[12][14]。入学式の前日に頭痛を訴えたが、無理を押して入学式に出席、翌日の朝に脳脊髄膜炎と診断された[15]。この病気が原因で聴力を失った[16]。初秋に退院し、10月から登校した[17]

父の勝身は竣介を陸軍士官学校に入れたいと思っていたが、竣介自身は技師になりたいと考えていた[18]。耳が聴こえなくなったことで軍人への道が断たれたため、勝身は竣介の希望通り技師の道へ進ませることを考え、竣介にカメラ、現像・焼きつけの器具を買い与えた[12][18]。しばらくは熱中していたが、やがてカメラに対する興味を失った[18]。竣介が2年の時に、兄彬が卒業後上京し府立一中の補習科へ通いだした[18](彬の上京は東京外国語大学進学のためであった)。その時に、油絵の道具一式を求めて郷里の弟へ送った[19]。これがきっかけで絵を描くようになった。中学2年の夏頃からスケッチに熱中するようになり、3年の時には学校に絵画倶楽部を作った[20]。次第に絵の道を志すようになった[21]
太平洋画会研究所

1929年(昭和4年)3月20日[22]、盛岡中学を3年で中途退学して上京した[23]。小学校の恩師佐藤瑞彦[注 2]が、当時は池袋にあった自由学園に勤めていたため、その尽力で佐藤の隣家に家を借りて生活するようになった[25]。そこから太平洋画会研究所(のち「太平洋美術学校」に改称)へ通い始めた[26][27]。当時、この研究所では授業料の未払いをめぐって画学生と経営者側で対立が続いており、1930年(昭和5年)晩秋に研究所から学校へ衣替えして、太平洋美術学校として再スタート、竣介は引き続きこの学校に通った[28][29]。この研究所には靉光井上長三郎鶴岡政男も通っていたが(美術学校に衣替えしてからは通わなくなった)、当時は互いの面識はなかった[28]。太平洋美術学校では鶴田吾郎の指導を受けたが、今ひとつ惹かれるものがなかったようである[30]。10月に起きた世界恐慌のあおりで、勝身が経営する銀行が破産の危機に見舞われた[30]

美術学校に通っている間は、しばしば近くの茶房「りゝおむ」に集まって仲間と議論した[31]。当時、竣介はフルポンのあだなで呼ばれていた[29]。当時の竣介は、モディリアニの生き方に傾倒していた[32]。「赤荳(あかまめ)」という名のグループを作って活動していたが、この名は、モディリアニをモデルにして書かれたジョルジュ=ミッシェル作の伝記小説『レ・モンパルノ(Les Montparnos)』(第三書院、1932年[33][34]の中に出てくる少女アリコ・ルージュを日本語に訳したものである[32]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:135 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef