松木ひろし
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1954年生まれのイラストレーターの松木ひろしとは異なります。

松木 ひろし(まつき ひろし、1928年11月16日[1] - 2016年9月19日[2])は、東京市神田区(現・東京都千代田区)出身[1]脚本家。本名は松木 弘[2]
来歴・人物

東京府立第五中学校での友人に澁澤龍?がいる[3]旧制東京高校を卒業後、大学受験に失敗。鎌倉アカデミア夜間講座映画科で学ぶ。

自身の劇団を作って活動をしたのち、1950年に明治座の文芸部に入社、企画宣伝を担当[1]。明治座時代に舞台を観ていいなとおもったのは、菊田一夫飯沢匡の芝居だったと話していたことがある[1]

1954年のニッポン放送の開局とともに同社に入社してラジオ番組の制作にたずさわる[1]。同社に勤務しながら村田正雄旭輝子池田昌子三田佳子らと劇団「現代劇場」を立ち上げる。1958年、同劇団にて上演した「娑婆に脱帽」の脚本が第4回新劇戯曲賞(のちの岸田国士戯曲賞)の候補作品となる。

1958年のフジテレビの開局にともない、出向して演出を担当[1]。自らが演出していたコメディ『ぼうふら紳士』で一部の脚本を担当し、テレビ脚本家デビュー。その後、盛んに脚本を書くようになり、1961年に独立[4]

テアトル・エコーにも、脚本を提供。クレイジーキャッツの〈無責任〉シリーズの一部を始め、ザ・ドリフターズコント55号の主演作など、喜劇映画の脚本を多く手がける。

当時のテレビ界は、映画出身の作家に対してテレビラジオ出身の作家の待遇が悪く、その待遇改善のため、1970年に向田邦子・松木ひろし・窪田篤人津田幸夫らによって作家集団SHPを作る[5]。その発展形として逸見稔が中心となった作家集団葉村彰子にも参加し[5]、テレビドラマ『水戸黄門』『大岡越前』『江戸を斬る』なども手がけた[6]

ホームドラマのコメディを得意とし、向田邦子らとともにテレビドラマ『七人の孫』『だいこんの花』など森繁久彌主演のホームドラマを執筆。また『おひかえあそばせ』ではじまる、1970年代の石立鉄男主演の「石立ドラマ」ではそのほとんどで、メイン脚本家として活躍した。

2016年9月19日午後3時20分、急性白血病のため死去[2]。87歳没。
作品
テレビドラマ

ぼうふら紳士(1960年、フジテレビ) ※演出兼務

墓場はバラ色(1960年、フジテレビ)

間違いではじまった(1960年、日本テレビ

この線からアッチ(1960年、フジテレビ)

くりすます・ロータリー(1960年、NET

夜の見た炎(1961年5月 - 9月、フジテレビ)

若い川の流れ(1962年2月6日 - 2月27日、フジテレビ)

二十歳の設計(1962年4月 - 5月、フジテレビ)

娑婆に脱帽(1962年5月、フジテレビ)

仮面の女(1962年12月 - 1963年5月、KTV

このデッカイ夢(1963年5月 - 9月、フジテレビ)

七人の孫(1964年1月 - 7月、1965年6月 - 1966年2月、TBS

光る海(1965年2月 - 5月、TBS)

青空にらくがきしよう(1965年3月 - 10月、フジテレビ)

東京警備指令 ザ・ガードマン(TBS)
第4話「赤いエレベーター」(1965年)

雨の中に消えて (日本テレビ)(1966年)第1回、第2回、第7回、第8回、第10回、第12回

あいつと私(1967年2月13日 - 7月3日、日本テレビ)

ある日わたしは(1967年10月23日 - 1968年4月29日、日本テレビ)

もも・くり三年(1968年8月 - 9月、NET)

アーラわが君(1969年 - 1970年、フジテレビ)

S・Hは恋のイニシァル(1969年、TBS)

だいこんの花(1970年10月22日 - 12月24日、NET)

新・だいこんの花(1972年1月6日 - 6月29日、NET)


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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