「松平頼明 (常陸府中藩主)」あるいは「松平頼覚」とは別人です。
松平 頼暁
生誕 (1931-03-27) 1931年3月27日
出身地 日本・東京府
死没 (2023-01-09) 2023年1月9日(91歳没)
日本・東京都
学歴東京都立大学理学部卒業
ジャンル現代音楽
職業作曲家、生物物理学者
著名な家族松平頼則 (父)
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松平 頼暁(まつだいら よりあき、1931年3月27日[1] - 2023年1月9日[2])は、日本の現代音楽作曲家[3]、生物物理学者。理学博士。立教大学理学部教授。 東京府に作曲家の松平頼則の長男として生まれる。祖父の松平頼孝は子爵で鳥類標本収集家。水戸徳川家の連枝(分家)で常陸府中藩の藩主家であった府中松平家の直系の子孫で、同藩の最後の藩主・松平頼策は曾祖父にあたる。出版楽譜によっては、父・頼則との区別を明確にするため Yori-Aki Matsudaira と書き、さらに生年を併記しているものもある。 1953年、東京都立大学理学部を卒業し理学士号を得る。この間、作曲とピアノを独学で学ぶ。1950年代より活発な作曲活動を始める。1956年に父・頼則の弟子である江崎健次郎、下山一二三、伊東英直、玉野良雄
経歴
1953年に毎日コンクール(現日本音楽コンクール)に入選。1958年に国際現代音楽協会の世界音楽祭「ISCM World Music Days」に「ヴァイオリン、チェロ、ピアノのための三重奏曲」が入選、以後現在まで同音楽祭に通算9回入選している。1979年、「マリンバとオーケストラのための『オシレーション』」で尾高賞受賞。1989年、「ピアノとオーケストラのための『レコレクション』」で、ポーランドの第3回カジミェシュ・セロツキ国際作曲コンクールでメック出版社特別賞を受賞(第2位相当)。1998年紫綬褒章受章[7]、2004年旭日小綬章受賞、2006年中島健蔵音楽賞受賞。日本現代音楽協会委員長を担当。日本での初開催となった2001年の ISCM World Music Days 横浜大会では大会委員長兼国際審査員を務めた。2006年にはベルギーで行われた第2回ハーレルベーケ・ムジーク・スタット主催国際吹奏楽作曲コンクールで、第3位に入賞した。
また、東京純心女子大学講師としてアメリカ現代音楽を教えていた。松平の作品はこれまで、イタリアのツェルボーニ社、ドイツのメック出版社とトレメディア音楽出版社、日本のソニック・アーツ、音楽之友社(「音楽芸術」誌の別冊付録)、東京アートサービス、マザーアースから出版されている。松平に師事して学んだ主な作曲家には安達元彦、内本喜夫、山口淳、荒尾岳児、武田モトキ、飛田泰三、森田泰之進、山路敦斗詩ら、強い個性を持った者が多い。
2023年1月9日、肺炎のため東京都内の病院で死去[2][8]。91歳没。 松平頼暁は、演奏会プログラムなどでの自身のプロフィールに「何年から何年までは何々の様式で作曲」と自身で記しており、時期別に既存の様式観に沿って作風の変遷を追うことが可能である。「総音列主義(トータル・セリエリズム)」と「ピッチ・インターヴァル技法
作品総論
初期作品のいくつかが破棄されているが、社会主義リアリズムの書式を数年ほどピアノと作曲の両面で学んだ後に決別。その後十二音技法から総音列主義で作曲する。この時期にピアノ、ヴァイオリン、チェロのための変奏曲(1957年)が作曲された。その後もポスト・セリエルの技法に沿った「速度係数」(1958年)や、図形楽譜を用いた「軌道」(1960年) 、「インストラクション」(1961年) が作曲されている。当時は「何で書くか」といった技法が前面に出る傍ら、素材の持ち味は副次的な役割に留まっている。自己模倣を決して作らないといった流行にも染まり、一作ごとに違ったテーマを考え、初期設定もその都度変えて作曲していた。
セリーとの関わりを追究されることが多い彼だが、在学中にストラヴィンスキーの『春の祭典』の演奏に接して、強烈な印象を受けたことを忘れてはならない(彼が興奮して書いた演奏評が、没になったという)。この作品の第1部は高揚の絶頂で突然音楽が終わる。修辞抜きで音楽が終わることにショックを受けたことは、彼の作品の構造と持続に深い影響を与えている。終止を伴う作品も書かれているものの、「突然、修辞抜きで終わる」エンディングは、その作品にひろく見られる。器楽作品の多くはセリエルな発想に基づいており、個々の音名を選び抜く態度は、音色的な潤いの有無にかかわらず全作品にわたって共通する。
1960年代後半からロバート・ラウシェンバーグの「コンバインド・アーツ」に影響を受け、その技法を音楽に転用し始めた。「アッセンブリッジス」(1968年)では、電子音楽ヴァージョンとヴォーカリスト・ヴァージョンを同時演奏しても良いとなっている。ただのヌード画像をそのまま方眼紙にトレースして諸パラメータを決定するなど、不確定性と偶然性の中間領域を担う目的もあった。1970年代に入って、ピアノのための「アルロトロピー」(1970年)で、セリー主義者が忌避したパルスのみで全曲の音運動を制御する傍ら、自らの忌避したショパンを引用したように、既成作品から引用する技法が目立ってくる。この引用で、「突然ショパンが流れたので、テープレコーダーが壊れたと思った」聞き手もいたという。「全く無関係に」様々な行為が生起する音楽性に興味を持ち、「Wから始まる三つのシアターピース」(「Why not?」(1970年)、「Where now?」(1973年)、「What's next?」(1967年 - 1971年))を完成させるのがこの時期である。中でも「Why not?」はトランプでイヴェントを決定する指示がなされている。様々なイヴェントの接合を考慮するために、一作の作曲にかける時間が特に長かったのがこの時期である。チューバのための「シミュレーション」(1974年 - 1975年)は、チューバ独奏の部分よりも他の準備にかける時間のほうが大変である。