松平頼則
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松平頼常」とは別人です。

松平 頼則

基本情報
生誕 (1907-05-05) 1907年5月5日
日本東京市小石川区
死没 (2001-10-25) 2001年10月25日(94歳没)
学歴慶應義塾大学文学部仏文科中退
ジャンル現代音楽
職業作曲家ピアニスト
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松平 頼則(まつだいら よりつね、1907年5月5日 - 2001年10月25日)は、日本作曲家ピアニスト
略歴

子爵松平頼孝の長男として東京市小石川区久堅町(現・東京都文京区小石川)に生まれる。母の治子は公爵徳大寺実則の四女。大叔父に内閣総理大臣西園寺公望がいる。

学習院初等科から暁星中学校に進む[1]。16歳のとき生家が没落し、久堅町の邸宅を手放すことを余儀なくされ、父と別居した母に伴われ、妹とともに青山に仮寓[1]。一高入試に失敗して2年間の浪人ののち、慶應義塾大学文学部仏文科に進む[1]国立音楽学校に転学したが1年ほどで慶應義塾大学に戻り[2]、叔母の学資援助により、大学時代からピアノチャーレス・ラウトロプに、和声学対位法楽式論ハインリヒ・ヴェルクマイスターに、作曲を小松耕輔に師事。慶應義塾大学在学中、1930年1月に結婚[2]、1931年3月に長男の頼暁が誕生。のち大学は中退。この間、1930年清瀬保二箕作秋吉菅原明朗橋本國彦たちと共に新興作曲家連盟を結成する。同年、ピアニストとしてデビューする。

1946年清瀬保二早坂文雄伊福部昭たちと共に新作曲派協会を結成する。上野学園大学教授、日本現代音楽協会委員長を歴任する。1972年紫綬褒章1979年勲四等旭日小綬章を受章する。1996年文化功労者に選ばれた。2001年糖尿病で没。享年94。

長男の松平頼暁も作曲家である。教え子に荻原利次がいる。
作風

南部地方民謡を素材とした新古典主義的な作風から出発し、雅楽との出会いを経て、雅楽と西欧の前衛音楽を結びつけた独自の境地に至る。前衛的な作風に転換した時期にはすでに50歳近くになっていたが、それ以後も十二音技法からトータル・セリエリズム不確定性の音楽などを次々と採りいれ、作風は常に進化し続けた。オリヴィエ・メシアン[注釈 1]ピエール・ブーレーズ[注釈 2]ジョン・ケージ[注釈 3]に影響を与えるなど国際的な評価も高く、ISCM入選作品の日本人最多記録[注釈 4]を持つ。晩年はソプラノ歌手奈良ゆみのために、モノオペラ「源氏物語」をはじめ数多くの声楽作品を作曲した。
雅楽の申し子と呼ばれて

南部地方の民謡に基づく新古典主義的なオーケストラ曲「パストラル」(1935年)でチェレプニン賞第2席を獲得し、デビューする。当時の作風は深井史郎から「カチカチ」と評されたが、譜面が整いすぎてアゴーギクに支障が出ることは否めなかった。そのような中でも「古今集」(1939年-1945年)で見られる和声付けの典雅さは後年の資質を感じさせる。この頃からすでに増四度音程に偏愛を見せていたが、それは晩年まで一貫する彼の作風の特徴となる。「前奏曲ニ調」(1934年)はアレクサンドル・チェレプニンの演奏で録音されている。

梶井基次郎も臨席したアンリ・ジル=マルシェ[注釈 5]のピアノリサイタルは、当時の日本の常識を覆す近代作曲家の日本初演の連続で聴衆を驚愕させたが[注釈 6]、このリサイタルに大きな感銘を受けたことがきっかけで、松平は驚異的なスピードで印象派以降の和声イディオムを吸収した。

ヘルベルト・フォン・カラヤンの指揮とイヴォンヌ・ロリオの独奏で再演[注釈 7]されたピアノとオーケストラのための「盤渉調越天楽による主題と変奏」(1951年)[注釈 8]は、越天楽の演奏で最も良く聴かれる平調ではなく盤渉調を採用しており、メロディラインがよく知られたものとは若干異なる。この曲は20世紀前半に完成された近代和声の見本市のような様相に加え、十二音技法が部分的に採用されている。一方、第5変奏ではフォックストロットブギウギスウィングのリズムがそのまま用いられており、クラシック音楽と商業音楽の中継点を模索する姿勢がうかがえる。

「主題と変奏」が1952年にISCMに入選したのを皮切りに、1954年にソプラノと室内オーケストラのための「催馬楽によるメタモルフォーズ」が、1957年にオーケストラのための「フィギュール・ソノール」が、1959年にオーケストラのための「左舞」がそれぞれ入選する。この時期には十二音技法を全曲にわたって敷衍し、雅楽の調子(旋法)を十二音技法で再分析する作曲技法を開発した。ただし、雅楽の旋法分の7音に対して残りの5音はかなり自由に選ばれており、この自由選択から不確定性へも開眼したことが、さらに作風の幅を広げることとなった。オーケストラのための「右舞」、「左舞」以降は音高のみならず他のパラメータにもセリエルな操作が及ぶようになる。「桂」(1959年)では、当時はまだルチアーノ・ベリオですらも模索中だった素材音高音列の使用と十二音技法が、幾何学的に絡む装飾音に彩られた書法とマッチしている。当時の多くの作曲家がセリー技法とパルス構造との矛盾に悩む中、50年代末期の時点であっさりと打楽器奏者に淡々とパルスを託し、なお品格が損なわれることがない。
50歳を過ぎた音列主義者

50歳を過ぎても海外の動向を常にリアルタイムで追う松平は、ヨーロッパにおいて評価を高めてゆき、ポール・メファノゴッフレド・ペトラッシヴィトルト・ルトスワフスキ、ピエール・イヴ・アルトーの激賞を受けた。1963年にオーケストラのための「舞楽」が、1965年に「ピアノ協奏曲」が、1969年に2台のピアノと2人の打楽器奏者のための「ポルトレ B」が、1972年に2群のオーケストラのための「循環する楽章」が、1974年にオーケストラのための「前奏曲、間奏曲、後奏曲」(上演見送り。翌年再入選)が、1980年に2つのフルート、2つのクラリネットと4人の打楽器奏者のための「神聖な舞踊による3つの楽章のための変奏曲(振鉾三節による変奏曲)」が、1983年にソプラノと室内アンサンブルのための「唱歌」が、1984年に10楽器のための「雅楽の主題によるラプソディ」が、1991年にソプラノフルートのための「源氏物語による3つのエール」がそれぞれ入選し、国際的な評価を高めてゆく。


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