この項目では、戦国武将で大草松平家2代当主について説明しています。江戸時代中期の旗本で松平郷松平家12代当主については「松平親貞 (松平郷松平家)」を、杵築藩6代藩主については「松平親貞 (能見松平家)」をご覧ください。
凡例松平 親貞
時代戦国時代
生誕不明
死没不明
改名親貞、親忠、親貞[1]
墓所大林寺[2]
官位左馬允[3][4]
氏族大草松平家
父母父:松平光重[5][4]
兄弟親貞、信貞[注 1]、貞光
松平 親貞(まつだいら ちかさだ)は、戦国時代の三河国の武将。大草松平家2代当主。 松平氏の庶流で、岡崎城主・西郷氏の跡を継承した松平光重の嫡男。延徳4年(1492年)父と連名で額田郡蓬生の武士・小島正秀
略歴
親貞には嗣子がなかったため弟の信貞に岡崎城を譲ったとされ、永正8年(1511年)には信貞が史料上に現れる[4][2]。永正年間には今川氏親・伊勢宗瑞による三河侵攻を松平氏は辛うじて退けており、親貞はこの戦乱の最中に戦死したことが考えられる[2]。
脚注[脚注の使い方]
注釈^ 「大林寺由緒書」は信貞を松平光重の実子ではなく、西郷頼嗣の子としている[6]。
^ この寄進状の署名には「親忠」とあるが花押が親貞と一致しており、一時的に改名していたものと考えられる。安祥城主の松平親忠(当時は入道して西忠)ではない[1]。
^ 同連判状には弟の形原左近将監貞光の名も見られる[11]。