松平親次
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 凡例松平親次
松平親次像(宝泉院蔵)
時代戦国時代
生誕文亀3年(1503年)(『寛政譜』)[1]
大永元年(1521年)(『安城市史』)[2]
死没享禄3年(1530年)(『寛政譜』)[1]
天正3年(1575年)(『安城市史』)[2]
別名三郎次郎[3]右京亮[3]
墓所愛知県安城市福釜町の松平墓地
主君松平清康
氏族福釜松平家
父母父:松平親盛
妻久松定俊(肥前守)の娘[1]
親俊、上田元秀、盛次[1]
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松平 親次(まつだいら ちかつぐ)は、戦国時代三河国武将福釜松平家の2代当主。通称は三郎次郎[3]、右京亮。『寛政重修諸家譜』によれば「鑓三郎次郎」の異名で呼ばれた武勇の持ち主であり、松平清康が東三河の宇利城を攻めた際に戦死した[4]。ただし、宇利城攻めで戦死したのは父の松平親盛ともされる。
生涯福釜松平家三代の墓(右から初代親盛、2代親次、3代親俊)

三河国碧海郡福釜(現在の愛知県安城市福釜町)を本拠とする福釜松平家松平親盛の子として生まれる。『寛政重修諸家譜』(以下『寛政譜』)によれば、幼い頃より松平清康に仕え、戦場では槍を取って比類なき働きを見せた[3]。その武勇は父に劣らないとして、鑓三郎次郎と呼ばれたとある[3]。なお、親次が使用した槍は助宗の作で、『寛政譜』編纂時には末裔の松平伝次郎康珍宅に伝わっていたという[3]

『寛政譜』によれば、享禄3年(1530年)に松平清康が熊谷氏の籠る宇利城(現在の新城市中宇利)を攻めた際に戦死したとあり、戦死の際の事情を詳しく載せている[4]。親次は、桜井松平家松平信定(内膳。親次の叔父にあたる)とともに大手攻めの主将であり、鎧の綿噛[注釈 1]に「今日の戦に一歩も退くまじ」と記した誓文を付けて戦に臨んだ[4]。守備側の熊谷氏も猛将と謳われた人物であり、城を打って出た熊谷勢の前に松平勢は敗走したが、親次はひとり踏みとどまって力戦し戦死した[1]。28歳[1]。従士の天野忠俊[注釈 2]、大浜源内、宮村平七・平八、鈴木主殿助、安藤助作、近藤治右衛門ら10人余りもともに戦死したという[1]

三河物語』によれば、宇利城で戦死した「松平右京」は「御一門の中にも勝れたる弓取」という人物であったとされるが、清康のおじ、すなわち親次の父の親盛とされている[6]。宇利城攻めの発生年代を含め、文献や研究によって解釈はまちまちである(詳細は松平親盛参照)。

安城市の解説では、文亀3年(1503年)に生まれて享禄3年(1530年)に討死したのは父の親盛であるとする[7]。『安城市史』は親次の生没年について大永元年(1521年)生まれ・天正3年(1575年)没とする[2]。親次は13歳で初陣したと記している[7]

『寛政譜』によれば、初代親盛から4代康親までは福釜の宝泉院を葬地としたという[3]。現代では宝泉院の西100mほどの場所にある「松平墓地(福釜城主墓域)」に、初代親盛から5代康盛[注釈 3]までの福釜松平家歴代の墓が移されている[8][注釈 4]。宝泉院には福釜松平家初代親盛・2代親次・3代親俊の肖像画があり、安城市指定の文化財となっている(指定名は「絹本著色 福釜松平三代像」)[7]。親次の肖像は槍(鑓)を手にしており、「鑓三郎次郎」と称された武人にふさわしく描かれている[7]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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