松平清康
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 凡例松平清康
松平清康像(随念寺蔵。岡崎市指定文化財)
時代戦国時代
生誕永正8年9月7日1511年9月28日
死没天文4年12月5日1535年12月29日
改名竹千代(幼名)→清孝
別名次郎三郎(通称)[注 1]
戒名善徳院殿年叟道甫大居士
墓所愛知県岡崎市鴨田町大樹寺
愛知県岡崎市門前町随念寺
氏族松平氏(自称清和源氏世良田氏
父母父:松平信忠 
母:大河内満成の娘
兄弟清康、信孝康孝松平乗勝室→鈴木重直室)、
東姫(大浜道場室)、瀬戸之大房(吉良持広室)、矢田姫久?
妻正室:於波留(春姫)(松平昌安の娘)
継室:華陽院
ただし、前夫・水野忠政との間の子の生年から否定する向きがある。
広忠信康、俊継尼(吉良義安室)、
碓井姫松平政忠室→酒井忠次室)、成誉
養女:松平乗勝室→鈴木重直室)、
瀬戸之大房(吉良持広室)
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松平 清康(まつだいら きよやす)は、戦国時代武将。安祥松平家の3代当主。2代当主・松平信忠の子。三河国安祥城城主および岡崎城主。安祥松平家は清康の代に岡崎を征服し、武力により一族・重臣の掌握を急速に進め西三河を支配下においた。徳川家康の祖父にあたる。
生涯
武力により三河を掌握清康が創建した龍海院

永正8年9月7日1511年9月28日)、安城松平家6代当主・松平信忠嫡男として生まれる。母は大河内氏

大永3年(1523年)に隠居の祖父・道閲(長親)や一門衆が父・信忠を隠居させて、子である竹千代(清康)に家督を継承させた。三河吉良氏吉良持清偏諱を受けて清孝(きよたか)と名乗る[注 2]。「清康」は現存する当時の発給文書では存在せず、確認できる名称は「清孝」名義しかない[注 3]

大永5年(1525年)に足助城の鈴木重政を攻めてこれを降伏させる。大永6年(1526年、または大永4年(1524年))、岡崎松平家山中城を攻撃して西郷信貞(松平昌安)を屈服させる。

ところが、この時期(大永3年から6年にかけてと推定)に作成されたとされ、深溝松平家(江戸時代の島原藩主)に伝えられていた安城松平家関係者による奉加帳の写(肥前嶋原松平文書「松平一門・家臣奉加帳写」[6])には、これまでの通説と矛盾する内容が記載されている。最初に道閲(松平長親)・松平蔵人佐信忠を筆頭に道閲の兄弟・子供たちをはじめとする松平一門の名前が連記されているが、信忠の後継者である筈の次郎三郎清孝(清康の初名)が67人中の59番目に記され、1人おいてその妻と推定される「医王 上」と呼ばれる女性の名前が記載されている。村岡幹生は当時の清孝(清康)が何らかの事情で安城松平家(道閲・信忠)から離れて山中城(医王山城)で自立状態にあったとしている[7]。村岡は奉加帳が作製されたた時点では信忠がまだ安城松平家の当主であったと判断して、信忠が早くに引退して清康に家督を譲ったとする話や清康が松平昌安を屈服させて山中城や岡崎城を奪ったとする話が創作である可能性があり、内紛など何らかの事情で安城松平家を離れて安祥城を退去する形となった清康が昌安の婿養子に迎えられて岡崎松平家を継ぎ、その後安城松平家の問題が解消されて[注 4]清康が同家に復帰して家督を継承したのが実像に近いのではないかとする説を提示している[8]。なお、村岡は別の論文で、松平信忠の3人の男子の“孝”の字が、信忠の道号である「泰孝」に由来するものとして、清康が清孝から改名した背景には安城松平家から岡崎松平家に移ったことをきっかけにしているのではないかとしている[注 5][9]

その後、信貞の居城であった旧岡崎城は破棄し、現在地の龍頭山に新岡崎城を移転し、岡崎を松平氏の新たな拠点とした[10][11]。岡崎では岡崎五人衆・代官・小代官による支配体制を整備。また、松平氏菩提寺大樹寺勅願寺化や修築・多宝塔の新築、松平郷から勧請し六所神社創建、龍海院の創建等を行った[12]

西三河の実質的な支配権を得るなかで、従来の支配層である三河吉良氏に対する権威性の確立が求められており、このころ清和源氏のひとつ新田氏一門である得川氏の庶流・世良田姓に注目。吉良氏に対する対立軸として世良田次郎三郎と名乗った。これが後に孫の家康が松平から徳川改姓を行うことにつながっているという(この経緯については世良田氏の項も参照)。清康はさらに、東西に軍を進めて勢力を広げる。

享禄2年(1529年)、尾島城(小島城:西尾市所在)を攻めとる。その一方で、同年5月28日(新暦7月3日)に東三河にも進出して三河牧野氏今橋城(後の吉田城)を攻め落とした[13]。清康はさらに吉田城の南方・渥美郡田原に進軍。戸田氏は戦火を避け戦わずに降服したので清康は吉田城に兵を戻して10日間在城。この間に北方・設楽郡山家三方衆田峯城菅沼氏および長篠城菅沼氏と亀山城奥平氏宝飯郡牛久保の牧野氏等の東三河国人衆を形式上、服属させた。ただし、三河の東端八名郡にあった宇利城の熊谷氏だけが服属を拒んだためこれを包囲し、11月4日11月23日)に攻め落とした[注 6][注 7]

後妻の華陽院松平氏水野氏を破ったときの講和条件として掠取したといわれている。清康の死後、星野秋国、菅沼定望、川口盛祐といった三河の諸豪族へ次々に嫁ぐが、いずれも夫に先立たれた。

なお、一説によれば宇利城攻め以後、桜井松平家の叔父・信定との仲を悪化させたともいわれる。その理由に挙げられるのが、宇利城攻略戦において、大手門を攻める福釜松平家の叔父・親盛を失った際に、支援が遅れたことが原因であるとして信定を清康が罵倒したことだといわれる。ただし、清康と信定の不仲を後世の創作とする説もある[14]
森山崩れ岡崎市鴨田町大樹寺内にある松平八代墓の松平清康の墓岡崎市魚町大林寺の松平清康の墓

享禄3年(1530年)には尾張国へ再出兵、岩崎城 を落とし岩崎郷(日進市岩崎町)を、品野城を落とし品野郷(瀬戸市品野町)を奪った。


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