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出典検索?: "松平治好"
凡例松平治好
時代江戸時代中期 - 後期
生誕明和5年3月25日(1768年5月11日)
死没文政8年12月1日(1826年1月8日)
改名於義丸(幼名)、治好
別名伊予守→越前守(通称)
戒名威徳院温誉恭道光兼
墓所福井県福井市の運正寺
東京都品川区南品川の海晏寺
官位従四位上・侍従、左近衛権少将、正四位下・左近衛権中将
幕府江戸幕府
主君徳川家斉
藩越前福井藩主
氏族福井松平家
父母松平重富、徳川宗将三女致姫
兄弟治好、女子、女子
妻徳川宗武八女定姫
山下氏、寿満
子箏、於義丸、女子、斉承、女子、善道、
女子、謹ら
本之丞
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松平 治好(まつだいら はるよし)は、江戸時代中期から後期にかけての大名。越前国福井藩13代藩主[注釈 1]。官位は正四位下・左近衛権中将。 明和5年(1768年)3月25日、12代藩主・松平重富の長男として江戸にて誕生した。天明3年(1783年)9月25日、元服して従四位上・侍従に叙任、父・重富の従兄弟にあたる10代将軍・徳川家治から偏諱を受けて治好、また伊予守と名乗る。寛政11年(1799年)9月18日、父の隠居で家督を継ぐ。同年12月18日、左近衛権少将に任官する。享和2年(1802年)2月29日には越前守に名乗りを改め、文化8年(1811年)12月11日には左近衛権中将に任じられる。 文化14年(1817年)9月、嫡子の仁之助(斉承)が、治好の従兄弟で11代将軍となっていた徳川家斉の娘・浅姫との縁組を申し渡され、翌文化15年(1818年)5月に2万石を加増されて32万石の大名となった。文政6年12月15日(1824年)、正四位下となる。文政8年12月1日(1826年)、江戸で死去した。享年58。 跡を嫡子の斉承が継いだ。 文化4年(1807年)に医学所である済世館を創設するなどの功績もあったが、幕命による隅田川普請や江戸藩邸の焼失、さらに治好自身が叔父の一橋治済と共に奢侈を極めるなどしたため、藩財政が著しく悪化した。文政5年(1822年)、藍玉を専売制とする。
生涯
藩政
系譜
父:松平重富(1748-1809)
母:致姫 - 徳川宗将の三女
正室:定姫(1767年 - 1813年) - 徳川宗武の八女
側室:山下氏
側室:寿満 - 千種氏
三男:松平斉承(1811年 - 1835年)
生母不明の子女
女子:箏 - 松平斉孝正室
男子:於義丸 - 早世
女子: - 早世
女子: - 早世
四男:松平善道
女子: - 早世
女子:謹 - 阿部正弘正室
養子:本之丞 - 徳川治済の子
脚注[脚注の使い方]
注釈^ 一般的には福井藩第3代と数える松平忠昌以降を別系統(別藩)と捉える学説・主張もあり、それに従えば第11代となる。
出典
表
話
編
歴
越前松平氏福井藩藩主 (1799年 - 1825年)
北荘藩
結城秀康1601-1607
松平忠直1607-1623
福井藩
松平忠昌1623-1645
松平光通1645-1674
松平昌親1674-1676
松平綱昌1676-1686
松平吉品1686-1710
松平吉邦1710-1721
松平宗昌1721-1724
松平宗矩1724-1749
松平重昌1749-1758
松平重富1758-1799
松平治好1799-1825
松平斉承1826-1835
松平斉善1835-1838
松平慶永1838-1858
松平茂昭1858-1871
廃藩置県