松平永芳
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松平 永芳
1937年頃
生誕1915年3月21日
日本東京府
死没 (2005-07-10) 2005年7月10日(90歳没)
所属組織大日本帝国海軍
陸上自衛隊
軍歴1937 - 1945(日本海軍)
1954 - 1968(陸自)
最終階級海軍少佐(日本海軍)
1等陸佐(陸自)
除隊後靖国神社宮司
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松平 永芳(まつだいら ながよし、1915年大正4年)3月21日 - 2005年平成17年)7月10日)は、日本海軍軍人陸上自衛官神職靖国神社第6代宮司1978年 - 1992年)時代には、A級戦犯の合祀を実施したことで知られる。
生涯
出自

東京に生まれる。祖父は松平春嶽。父は春嶽の長男・松平慶民子爵宮内大臣、戦後は宮内府長官)。母幸子は男爵新田忠純の四女。妻充子は侍従武官侯爵醍醐忠重(海軍中将)の二女。また、尾張徳川家を継いだ侯爵徳川義親(靖国会初代会長)は叔父に当たる。
軍人時代

暁星中学校を卒業。1937年(昭和12年)海軍機関学校(第45期)を経て、1944年昭和19年)10月海軍少佐・正五位に至る。敗戦後、西貢(サイゴン)海軍部部長として終戦処理を済ませ、1946年昭和21年)7月、部員47名を率いて、最後の復員船で帰国した。

戦後は陸上自衛隊に入隊し、1964年東京オリンピックでは支援集団に配属された。しかし大病に罹り、再起後は防衛研修所戦史室勤務を経て、1968年昭和43年)、1等陸佐で退官した。同年より福井市立郷土歴史博物館館長を務めた。
靖国神社宮司時代

1978年昭和53年)7月1日靖国神社の第6代宮司に就任した。
A級戦犯

10月17日、宮司預かりの保留であった極東国際軍事裁判(東京裁判)のA級戦犯14柱(靖国神社での呼称は昭和殉難者)の合祀を実行した。これが、いわゆるA級戦犯合祀問題の発端となる(合祀の判明は、翌年4月19日)。この論争は今日まで続いている。

1992年(平成4年)3月に宮司を退き、再び福井市立郷土歴史博物館長に復帰した。

2005年平成17年)7月10日、死去した。
逸話
A級戦犯合祀に関して

最高裁判所元長官で英霊にこたえる会初代会長・石田和外の強い勧めで、宮司に就任した。松平は「東京裁判を否定しなければ、日本の精神復興は出来ないと思うから、いわゆるA級戦犯者の方々も祀るべきだ」と云う意見を、石田に言った。それに対して石田は、「これは国際法その他から考えて、祀ってしかるべきものだ」と明言したが故に、命がけで神社を創建の趣旨に違わない本来の姿で守ろうと決意したと云う。松平が宮司になって考えたのは、何か決断を要する場合、祭神の意に沿うか沿わないか、遺族の心に適うか適わないか、それを第一にして行くとの方針の下に、次の三原則を定めた。
日本の伝統の神道による祭式で、御霊をお慰めする。

鳥居や神殿などの神社のたたずまいを、絶対に変えない。

明治天皇が命名した社名を変えない。


A級戦犯14柱の合祀についての松平の考えは、「国際法的に認められない東京裁判で戦犯とされ処刑された方々を、国内法によって戦死者と同じ扱いをすると、政府が公文書で通達しているから、合祀するのに何の不都合もない。むしろ祀らなければ、靖国神社は僭越にも祭神の人物評価を行って祀ったり祀らなかったりするのか、となる」であった。故に靖国神社の記録では、戦犯とか法務死亡と云う言葉を一切使わないで、「昭和殉難者」とすべし、という「宮司通達」を出し、これを徹底させた。

松平は、1970年代に遺族などが要望していた国家護持法案には断固反対の立場で、「戦前と異質な、戦後の国家による国家護持では危険なので、靖国神社は、国民一人一人の「個の連帯」に基づく国民護持・国民総氏子で行くべき」と強く提唱し、靖国神社を絶対に政治の渦中には巻き込まない方針を堅持した。宮司退任に当たっては、「権力に迎合・屈伏したら、創建以来の純粋性が失われてしまう」ことを懸念し、「権力の圧力を蹴とばして、切りまくる勇気をもたないと不可である」ということを、次の宮司への一番の申し送りとしたと云う。また、国家護持反対の理由として松平は、宮司就任後、明治以来の同神社の財政状況調査に着手し、同神社は当時の明治政府によって創建された一方、収入のほとんどが玉串料やお賽銭など社頭収入であり、実質的に民営である事実を強調した。更に、松平が国家護持反対を確信するに至ったのが、1985年終戦の日中曽根康弘首相の公式参拝である。中曽根が「手水」を使わなかったこと、玉串を捧げなかったこと、「二礼・二拍手・一礼」の神道形式をとらなかったこと、お祓いを拒否したこと、更には参拝の際、ボディーガードを伴い行ったことを問題視、激しい憤りを抱いていたとされ。中曽根が戦後の歴代首相として初めて公式参拝と表明して参拝に訪れた際、松平は出迎えに応じることはなかった。同神社の宮司が参拝に訪れた首相を出迎えなかったのは後にも先にも1985年終戦の日ただ一度だけである。

松平が死去したちょうど一年後というタイミングである2006年平成18年)7月20日、A級戦犯14柱を合祀した松平に、昭和天皇が強い不快感を覚えていたとする、いわゆる「富田メモ」とされる断片が報道され、論議を起こした。侍従・卜部亮吾の記した「卜部亮吾侍従日記」(御厨貴ら監修)のうち、2001年平成13年)8月15日の日記に、「靖国合祀以来天皇陛下参拝取止めの記事 合祀を受け入れた松平永芳(宮司)は大馬鹿」と記述されていることが明らかになったとされ、また昭和天皇崩御前後の日記には、富田メモと同様の記載がされていると報道された。(真偽について、および木戸幸一内大臣の『木戸日記』との整合性については「富田メモ」項目参照。)

共同通信の松尾文夫の取材に対して「合祀は(天皇の)御意向はわかっていたが、さからってやった」と語っている。

皇室に関して

大正天皇の侍従から宮内大臣まで、一貫して宮内省の要職を歴任し、宮中の機密に関わった父・松平慶民の日記は、遺命に従って、表紙のみを残して処分したと云う。松平は云う、「父は、皇族方にとつては、一番怖い存在で、殿下方にお小言を申し上げる専門職であつた。父は、皇室は道義の中心でなくてはならないと考へて、殿下方に対しては、その御意見番を以て自ら任じてをりました」と。

「戦後父親の没後より今日に至るまで、皇室の御在り方、御行く末の御事共を憂慮、懊悩して、事ある毎に側近要路の方々に対し、如何やうに思はれやうとも、意に介すること無く、進言して憚らないのは、両親が私に対して施した、皇室に対し奉る生涯教育のしからしめる結果でもあらうか」と語っている。


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