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出典検索?: "松平斉承"
凡例松平斉承
時代江戸時代後期
生誕文化8年2月11日(1811年3月5日)
死没天保6年閏7月2日(1835年8月25日)24歳没
改名仁之助(幼名)→斉承
別名通称:伊予守→越前守
戒名天梁院乗誉玄通明哲
墓所福井県福井市の運正寺
東京都品川区南品川の海晏寺
官位従四位上・侍従、左近衛権少将
幕府江戸幕府
主君徳川家斉
藩越前福井藩主
氏族福井松平家
父母父:松平治好、母:千種氏娘・寿満
兄弟箏、於義丸、女子、斉承、女子、善道、
女子、謹ら
養兄弟:本之丞
妻浅姫
子菊姫、於義丸、邦之助
養子:斉善
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松平 斉承(まつだいら なりつぐ)は、江戸時代後期の大名。越前国福井藩14代藩主[注釈 1]。官位は従四位上・侍従、左近衛権少将。 文化8年(1811年)2月11日、13代藩主・松平治好の三男として福井にて誕生した。文化14年(1817年)9月、11代将軍・徳川家斉(治好の従兄弟にあたる)の娘・浅姫と縁組、文政2年(1819年)11月に結婚した。文政7年(1824年)3月28日に元服、岳父・家斉より一字を拝領して斉承、また伊予守を名乗る。同時に従四位上・侍従に叙任される。文政8年(1825年)に父が死去したため、翌文政9年(1826年)1月22日に家督を継ぐ。同年12月16日、左近衛権少将に任じられ、同19日には越前守と名乗りを改めた。 文政10年(1827年)から5ヵ年の倹約令を出し、文政12年(1829年)には7ヵ年の家臣の知行半減を行なって藩財政再建を目指したが、祖父や父と同じように贅沢で奢侈を好み、福井城本丸に贅沢な御殿を建設したりするなどして藩財政を悪化させた。さらに米価高騰、疫病(天然痘)の流行なども藩を苦しめる一因を成した。
略歴
実子は全て早世していたため、家斉の子(正室浅姫の異母弟)である斉善が養子となって跡を継いだ。
近江国彦根藩との領地交代転封を画策し、失敗したとも伝わる。この際の遺恨が、幕末期における藩主である松平春嶽(慶永、斉善の養子)と大老となった彦根藩主井伊直弼との対立の遠因になっているともされる。
系譜
父:松平治好
母:寿満 - 千種氏
正室:浅姫(1804年 - 1857年) - 松栄院、徳川家斉の十一女
長女:菊姫 - 早世
長男:於義丸 - 早世
次男:邦之助 - 早世
養子:松平斉善(1820年 - 1838年) - 徳川家斉の二十二男
脚注[脚注の使い方]
注釈^ 一般的には福井藩第3代と数える松平忠昌以降を別系統(別藩)と捉える学説・主張もあり、それに従えば第12代となる。
出典
表
話
編
歴
越前松平氏福井藩14代藩主 (1826年 - 1835年)
北荘藩
結城秀康1601-1607
松平忠直1607-1623