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凡例.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}松平(まつだいら) 春嶽(しゅんがく) / 慶永(よしなが)
福井藩主時代の松平慶永
時代江戸時代末期(幕末) - 明治時代中期
生誕文政11年9月2日(1828年10月10日)
死没明治23年(1890年)6月2日(61歳没)
改名松平錦之丞(幼名)[1]→慶永→春嶽(号)
別名礫川、鴎渚
戒名諦観院廓誉超勝常然大居士
墓所東京都品川区南品川の海晏寺
福井県福井市の佐佳枝廼社
福井県福井市の福井神社
官位従四位上少将上座、正四位下左近衛権少将兼越前守、左近衛権中将、大蔵大輔、正四位上参議、議定、内国事務総督、従二位、権中納言、民部官知事、民部卿、大蔵卿、大学別当・侍読、正二位、従一位
幕府江戸幕府 政事総裁職、京都守護職
主君徳川家慶→家定→家茂→慶喜→明治天皇
藩越前福井藩主
氏族田安徳川家→越前松平家
父母父:徳川斉匡、母:お連以の方
養父:松平斉善
兄弟近姫、徳川匡時、謨P、鋭姫、猶姫、
鐐姫、欽姫、猗姫、徳川斉位、愛姫、
千重姫、純姫、徳川慶壽、春嶽、
徳川慶頼、筆姫、徳川慶臧
妻正室:勇姫(細川斉護三女)
側室:多満、婦知
子安姫、貞姫、誠姫、猶姫、六之助、康泰、節子、里子、正子、千代子、慶民、徳川義親
養子:茂昭、謐姫
特記
事項幕末の四賢侯の一人
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松平春嶽
松平 春嶽 / 慶永(まつだいら しゅんがく / よしなが、.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:松󠄁平󠄁 春嶽)は、江戸時代末期(幕末)から明治時代前期にかけての大名、政治家、華族。越前国福井藩16代藩主[注釈 1]。位階・勲等は従一位勲一等。
春嶽は号で、諱は慶永(よしなが)である。他に礫川、鴎渚などの号を用いた。
第11代将軍・徳川家斉の弟で田安徳川家3代当主・徳川斉匡の八男。母は閑院宮家司・木村大進政辰の娘である青松院(れゐ)。松平斉善の養子。第12代将軍・徳川家慶の従弟。英邁な藩主で、幕末の四賢侯の一人と謳われていた。著作に幕末明治期の重要な史料である『逸事史補』がある。 文政11年9月2日(1828年10月10日)、江戸城内の田安屋敷に生まれる。幼名は錦之丞。錦之丞は伊予松山藩主・松平勝善の養子となることが以前より内定しており、天保8年(1837年)11月25日には正式決定した。 天保9年(1838年)7月27日に越前福井藩主・松平斉善が若年で突然死去した。跡継ぎがいないことから、福井藩先々代藩主・松平斉承の正室・松栄院(浅姫・徳川家慶異母妹)や第12代将軍で斉善の兄の徳川家慶の計らいにより、9月4日付で急遽錦之丞が養子とされた。この手続きの整合性と正当性のため、越前国許からの斉善死去報告の使者は9月2日には江戸に到着していたが、「(国許での)斉善死去は8月28日。(だがそれとは知らないまま)江戸での養子縁組承認は9月4日。国許よりの使者到着は9月6日(に急使が到着した、とするなら、死亡日付は逆算して8月28日頃が都合がよいという設定)。」とされた。10月20日に正式に越前松平家の家督を相続。わずか11歳で福井藩主となる。12月11日に元服し、将軍・徳川家慶の偏諱を授かって慶永と名乗る。翌天保10年(1839年)1月10日に位記・口宣の通知があり、1月11日、日野前大納言邸において正四位下・左近衛権少将の位階・官職が与えられた。 天保10年(1839年)2月頃より、慶永と肥後熊本藩主・細川斉護の娘・勇姫との縁談交渉が福井藩より持ちかけられ、4月6日には幕府の内諾があり、5月27日正式に承認された。嘉永2年に結婚を果たす。 同じく天保10年(1839年)2月より、全藩士の俸禄3年間半減と、藩主自身の出費5年削減を打ち出し、財政基盤を盤石にすることに努めた。天保11年(1840年)1月、藩政の旧守派の中心人物であった家老・松平主馬
生涯
誕生から藩主就任まで
藩政改革