松平忠輝
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この項目では、徳川家康の六男について記述しています。旗本の同名の人物については「松平忠輝 (旗本)」をご覧ください。

 凡例松平 忠輝
松平忠輝像(複製、上越市立歴史博物館蔵)
時代安土桃山時代 - 江戸時代
生誕天正20年8月9日1592年9月14日、異説あり)
死没天和3年7月3日1683年8月24日
改名竹丸・藤松・辰千代(幼名)→忠輝
別名越後少将(通称)
戒名寂林院殿心誉輝窓月仙大居士
墓所長野県諏訪市諏訪の貞松院
官位従五位下、上総介、従四位下、左近衛権少将
幕府江戸幕府
主君豊臣秀吉→豊臣秀頼→徳川家康→徳川秀忠→徳川家光→徳川家綱→徳川綱吉
武蔵国深谷藩主→下総国佐倉藩主→
信濃国川中島藩主→越後国高田藩
氏族徳川氏長沢松平氏
父母父:徳川家康、母:茶阿局
養父:松平康忠
兄弟信康亀姫督姫結城秀康徳川秀忠忠吉振姫武田信吉、忠輝、松千代仙千代徳川義直徳川頼宣徳川頼房、異父姉(花井吉成妻)
妻正室:天麟院(伊達政宗の長女)
側室:お竹の方
子徳松、於竹姫
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松平 忠輝(まつだいら ただてる)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての大名
生涯
出生

天正20年(文禄元年、1592年)に徳川家康の六男(庶子)として誕生した。『徳川幕府家譜』『御九族記』には文禄元年に浜松で生まれたとある一方、『幕府祚胤伝』には江戸城で誕生したとした上で、同年に同母の松千代が双子の兄として誕生したとある。前者はこれ以前の天正18年(1590年)に家康が江戸に、それ以前の天正13年(1585年)に浜松から駿府に移っている。また後者は松千代を兄とする問題点がある。幼名は辰千代(たつちよ)とされ、生年が辰年だったのがその由来と思われるが、他に竹丸・藤松の名も確認される。

誕生した月日は『幕府祚胤伝』では1月4日だが、後述する高田城への移動の吉兆を占うために母茶阿局が崇伝に依頼した書状には、慶長18年7月13日時点で22歳とあり天正20年、また8月9日に出生したとある(『本光国師日記』)。

なお、『徳世系譜』(朝野旧聞?藁所載)には天正14年(1586年)生、文禄元年元服とする記述がある。同時代資料には、『言経卿記』に慶長10年(1605年)4月11日の参内・任官時点で12・3歳頃とあり文禄2年頃、『当代記』には慶長8年12月の川中島転封時点で12歳(竹主(丸)表記)、慶長10年5月11日時点で14歳(同『慶長見聞録案紙』、『当代記』には第七子とある)とあり文禄元年、また『当代記』に慶長14年(1609年)9月23日や同年12月11日時点で20歳とあり天正18年、同じく『当代記』に慶長15年(1609年)閏2月2日時点で22歳とあり天正17年に換算される。

武田信吉が生まれた天正11年(1583年)から天正20年の間に、公式には家康の子が出生した資料は確認できない。この間は秀吉の妹朝日姫が家康の継室となって死去する期間(天正14年 - 同18年)に符号しており、この間に家康の子が生まれるのは外聞を憚ったと見られる。

生母・茶阿局の身分が低いため、下野栃木皆川)城主で3万5,000石の大名である皆川広照に預けられて養育されることとなった。また天正期誕生説を採用した場合、義兄に当たる秀吉への遠慮も理由として考えられる。
長沢松平氏越後高田城三重櫓(新潟県上越市)

慶長4年(1599年)1月、家康の七男で同母弟の松千代が早世したため、弟の名跡を継ぐ形で長沢松平氏の家督を相続し、武蔵国深谷1万石を与えられた。ただし『徳川幕府家譜』では慶長初めに長沢松平氏は忠輝が直接継いだとあり(『御九族記』は松平康直死去と同じ文禄2年)、松千代は通説では異母弟松平仙千代の経歴とされる平岩親吉の養子になったとある。松平仙千代は後に御三家筆頭となる徳川義直の同母兄であり、いかに親吉が功臣としても養子とするのは不自然であり、庶子の第2子である松千代の方が妥当と言える。

慶長3年(1598年)、伊達政宗の娘と縁組を行う。慶長7年(1602年)に下総国佐倉5万石に加増移封され、元服して上総介忠輝を名乗る。

慶長8年(1603年)2月、信濃国川中島藩12万石に加増移封され、待城(松代城)主となる(佐倉移封が前年12月であったため、わずか40日で2度の転封となる)。

慶長10年(1605年)に上洛して家康が将軍として最後に参内した翌日の4月11日に参内、従四位下・右近衛権少将に任じられる。5月11日には新将軍秀忠の名代として、上洛を拒否した大坂の豊臣秀頼に面会した。慶長11年(1606年)11月24日、先述のように縁組した政宗の長女・五郎八姫と結婚した。慶長13年(1608年)、異父姉の婿の花井吉成附家老とされた。

慶長14年(1609年)9月、幼き日の忠輝を養育し、この頃は幕府からの附家老であった皆川広照や、山田重辰松平清直ら古くからの家臣が、忠輝の素行の改まらないことを駿府の家康に訴えた。忠輝側の弁明もあり、家康からは逆に家老に不適格であるとされて皆川・松平清直は改易、山田は切腹となった。

慶長15年(1610年)、当初は井伊直勝の代わりに近江国60万石もしくは50万石を与える話があったが、閏2月に越後福嶋騒動堀忠俊が改易されると、その旧領である越後国高田藩(福島城主・後述)30万石を加封され、川中島14万石と併せて合計45万石を領した(『恩栄録』)[1][2]。なお、所領は史料によって75万石(『慶長見聞録案紙』『慶長見聞書』)、65万石(『松平系諸集参考』)、55万石(『家盛』『大三川志』)、53万8千500石(『武徳編年集成』)、45万石(『恩栄録』『続選武家補任』)と一定していない。旧領の川中島領は花井吉成が松代城代となって支配した。この際、幕命により松平清直を5千石で再度附属させられている。

慶長17年9月には駿府で家康と面会したが、これは主に江戸に参勤していた忠輝としばらく会っていない家康からの要望だった。同年には長年家康麾下の大番頭を務めた松平重勝を、忠輝の附家老にした。翌年4月も忠輝は駿府に出向き、家康と面談している。
高田築城

越後領有当初の忠輝は、堀氏が築いた福島城を居城としたが、上述のように慶長17年7月の時点で南に移る話があり、慶長19年(1614年)2月に高田へ移ると、3月15日に高田城築城が始まり、7月5日に普請は完了した。高田城は幕命(天下普請)により、忠輝の義父である伊達政宗をはじめとした13家の大名の助役で築造された。西の越前国に封じられた同じく家康の子である結城秀康67万石の北の庄城と高田城の忠輝63万石の合計130万石で、加賀国の前田家120万石を挟んで封じ込める形になる。他の天下普請の徳川城郭と比較した場合に石垣の比率が低いが、これは東北の城全般に言える。移転理由として海と2本の川に囲まれた福島城は交通利便はあるが、河川や海による城への被害が激しかったためとある。また俗説として忠輝が絶えず聞こえる日本海の波の音を怖がったために内陸部に移転した、とする話が伝わる。
改易・配流伊勢朝熊の金剛證寺

慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では江戸の留守居役を命じられた。剛毅な忠輝には不満が残る命令であり、なかなか高田城を出発しなかったが、岳父の伊達政宗の促しもあり、結局これに従った[3]。戦後、駿府へ帰国した家康に面会している。慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で大坂に出陣した。


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