凡例松平 忠直
松平忠直像(浄土寺蔵)
時代江戸時代前期
生誕文禄4年6月10日(1595年7月16日)
死没慶安3年9月10日(1650年10月5日)
改名仙千代(幼名)→忠直→一伯(号)
別名幼名:長吉丸(国若丸とも)
戒名西巌院殿前越前太守源三位相公相誉蓮友大居士
西巌院殿相誉蓮友一泊大居士
墓所大分県大分市の浄土寺
大分県大分市の朝日寺
松平 忠直(まつだいら ただなお)は、日本の江戸時代前期の親藩大名。越前北荘藩主。官位は従三位参議、左近衛権中将、越前守。徳川家康の次男結城秀康の長子で、越前松平家第2代当主。 文禄4年(1595年)、摂津東成郡生魂にて、結城秀康の長男として誕生した。母は側室の中川氏(清涼院)[1][2]。同母弟に松平忠昌、異母弟に松平直政・松平直基・松平直良がいる。また江戸幕府初代将軍徳川家康は祖父、2代将軍徳川秀忠は叔父、3代将軍徳川家光は従弟に当たる[3]。 慶長8年(1603年)、江戸参勤のおりに叔父秀忠に初御目見する。人質ではあったが秀忠からは大いに気に入られ、慶長10年(1605年)に彼の下で元服し従四位下侍従・三河守に叙せられ、秀忠より偏諱を受け忠直と名乗る。慶長12年(1607年)、父の死に伴って北荘68万石を相続したが、幼少のため家老の本多富正(伊豆守)・今村盛次
生涯
若年の藩主
慶長16年(1611年)に祖父家康に連れられて上洛、3月20日に従四位上左近衛権少将へ昇叙、3日後の23日に祖父と共に宮中へ参内した。9月28日には秀忠の娘で従妹に当たる勝姫を正室に迎え、晴れやかな出来事が重なった。しかし一方、同じく祖父と共に上洛・参内した3人の年下の叔父である徳川義直・徳川頼宣・徳川頼房も叙任される、国元の家臣桜井武兵衛へ宛てた6月24日付の手紙で詳細不明の人物を預けることを指示するなど、忠直の周囲にはいくつか不穏な出来事も胎動していた[6][7]。
慶長17年(1612年)冬、重臣たちの確執が高じて武力鎮圧の大騒動となり、関係者は江戸へ召喚、家康・秀忠の両御所による直裁によって処分され、重臣の今村盛次・清水方正(丹後)は配流となる一方、同じ重臣の本多富正は逆に越前家の国政を補佐することを命じられた。翌慶長18年(1613年)4月には土井利勝が越前へ赴いて再び処分が行われ、忠直の母方の伯父の中川出雲守も配流され、5月に秀忠の命令で富正が越前の国政を執ることとされ、加えて富正の従兄弟の本多成重(丹下)を付家老として越前家に付属させた。これは騒動が重なるのは忠直がまだ若く力量が至らぬと両御所が判断したためである(越前騒動)[注釈 1][注釈 2][12]。またこの間、慶長17年暮れに池田氏・黒田氏ら諸大名と共に禁裏・仙洞御所の普請を命じられ、この頃から徳川将軍家の家門の越前家は一大名として扱われるようになる[13]。 慶長19年(1614年)4月6日に駿府の家康に拝謁、富正・成重の補佐を受けることを改めて命じられたが(秀忠が富正・成重を忠直の後見役に任命したとも)、両本多との間はぎくしゃくしていたとされ、藩主としての権力・行動を制約されたことに不満を抱いたと考えられている[14][15]。同年に起こった大坂冬の陣では、軍事も越前軍を率いた両本多に統制され、越前軍の活躍は諸資料に紹介されているが忠直本人の活躍はほとんど見られない[16]。 12月4日の真田丸の戦いでは、前田利常の軍勢に続いて井伊直孝の軍勢と先鋒を争い進撃するが、真田丸に籠る真田信繁の反撃に遭い480人の戦死者を出す敗北に終わった[13][17][18]。翌慶長20年(元和元年・1615年)の大坂夏の陣でも5月6日の八尾・若江の戦いで傍観して味方を助けなかったことを家康から叱責された[13][19]。翌7日の天王寺・岡山の戦いでは汚名返上に燃え、抜け駆けしてまで前線に進軍、突撃して来た信繁の軍勢と激戦を繰り広げた。一時は裏崩れを起こして忠直の周りに兵がなだれ込む混乱も見られたが、やがて反撃に出て真田軍を撃破、忠直の鉄砲頭西尾宗次が信繁を討ち取り首級を確保、御宿政友も忠直の家臣野本右近
大坂の陣で活躍