松平忠昌
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 凡例松平 忠昌
福井市立郷土歴史博物館所蔵
時代江戸時代前期
生誕慶長2年12月14日1598年1月21日
死没正保2年8月1日1645年9月20日
改名虎松/虎之助(幼名)、忠昌
戒名隆芳院殿郭翁貞真大居士
墓所福井県吉田郡永平寺町永平寺
官位正四位下参議伊予守
主君徳川秀忠家光
上総姉ヶ崎藩主→常陸下妻藩主→
信濃松代藩主→越後高田藩主→
越前福井藩
氏族越前松平家(宗家→福井家)
父母父:結城秀康、母:清涼院
養母:英勝院
兄弟忠直、忠昌、喜佐姫直政、吉松、直基
直良、呑栄ら
妻正室:浅野幸長の娘花姫
継室:広橋兼賢の娘道姫
側室:幾久、高照院
昌勝光通、長松、徳松、昌親、万姫
国姫、千姫、布里姫
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松平 忠昌(まつだいら ただまさ)は、江戸時代前期の大名越前福井藩(北ノ庄藩)3代藩主[注釈 1]。福井松平家の祖。官位正四位下参議伊予守
生涯

慶長2年12月14日(1598年1月21日)、北ノ庄藩初代藩主結城秀康の次男として大坂にて誕生した。母は側室で中川一茂の妹清涼院[1][2][3]。幼名は虎松、虎之助。同母兄に2代藩主松平忠直、異母弟に松平直政松平直基松平直良がいる。また江戸幕府初代将軍徳川家康は祖父、2代将軍徳川秀忠は叔父、3代将軍徳川家光は従弟に当たる[4]

慶長6年(1601年)の5歳の頃より父から永見吉次(毛受忠左衛門、後に永見志摩。祖母の長勝院の甥で忠昌の従叔父)、狛孝澄らの家臣を附属された。慶長12年(1607年)に父が亡くなると、11月に祖父家康と叔父秀忠に謁見し、上総姉ヶ崎藩1万石を与えられ、以後は秀忠の側近くで養育された[5]。また同年にもう1人の叔父に当たる徳川頼房と同じく、家康側室の英勝院猶子となっている。

武勇に優れた血気盛んな性格で、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣の際は秀忠の側で随行した。翌慶長20年(元和元年・1615年)が近づく頃、幕府と大坂の豊臣氏との最終対決が近づく気配を感じると、「年齢が若いために出陣許可が下りない」可能性を考慮し、直前の正月に急いで元服を済ませ、大人として扱われることを望んだ。望み通り、秀忠より偏諱(「忠」の字)を賜って伊予守忠昌と名乗って元服し、1月8日に従五位下侍従に叙任、2月には従四位下となる。出陣の許可を得ると、直後の大坂夏の陣では他の兄弟と共に、兄の忠直軍の一角を占めて出陣、大坂八町の一番乗りの功績を挙げる。忠昌の手勢が挙げた首級は57、うち自身で挙げた首級が2と記録されている一方、重臣の1人岡部長起を失う手痛い損失も被っている[1][2][6]。この際に使用した片鎌槍は、その後福井藩の大名行列のシンボルとなった。

この大坂の陣の活躍により、同年末に常陸下妻藩主であった頼房が水戸藩へ転封した跡の下妻藩3万石へ加増移封された。さらに翌年の元和2年(1616年)には叔父の1人松平忠輝改易された跡の信濃松代藩12万石へ、元和5年(1619年)には越後高田藩25万石へと加増移封されている(交代で高田藩主であった酒井忠勝が松代藩に移封)[1][2][7][8]。相次ぐ加増移封に伴い大量の武士を召し抱えて家臣団を膨張させ、忠輝の旧臣で長沢松平家出身の松平正世などを登用した。また従来の側近である永見吉次・狛孝澄を家老に取り立てる一方、秀忠から附家老として付けられた稲葉正成春日局の夫)を2人の上席として重用した[9]

元和9年(1623年)、秀忠と仲が悪く、素行にも粗暴な一面があったなどとされる忠直が「不行跡」を理由に配流処分(改易)となった。この処分について事前に秀忠から確認があったという[10]。翌寛永元年(1624年)に幕命により、忠昌が藩領のうち越前北ノ庄(福井)50万石及び越前松平家附家老の本多富正を筆頭とする「武辺者の家臣105騎[11]」(幕府の命により忠直家臣団より幕府が選抜した)[注釈 2]を継承し、高田藩から随従の300騎を併せて新たに福井藩の家臣団を形成した。当初、甥で忠直の嫡子・仙千代(後の松平光長)の行く末を思いやった忠昌は相続を固辞したが、幕府は仙千代に対しては別に領地を与えるとしたため、忠昌は北ノ庄藩50万石及び家臣団を継承することとなった[注釈 3]。後に仙千代には新たに忠昌が去った後の高田藩25万石が与えられ、忠昌と領地交換の形で移封になった[注釈 4][注釈 5][注釈 6][1][2][18]。寛永3年(1626年)、3代将軍家光の上洛に供奉、8月19日に正四位下参議となる[2]

寛永11年(1634年)に家光が大軍を率いて再上洛した際も供奉、同年領地朱印状を拝領し、それによれば同年8月時点での所領は50万5280石である。後に寛永14年(1637年)、弟の直良の越前木本藩から越前勝山藩への移転に伴い、幕府より木本藩2万5000石の旧領のうち2万石を加増される(残り5,000石は直良が持ち、勝山藩に併合した)。正保元年(1644年)には、同じく直良が勝山3万5000石から越前大野藩5万石へ移った後の勝山3万5000石を幕府より「預領」として預けられた。

寛永14年(1637年)の島原の乱には出兵の命は下らず、見舞いと称する藩士12人を派遣した。寛永20年(1643年)、異国船改めのため三国湊に番所を建てる。正保2年(1645年)8月1日、江戸の霊岸島の中屋敷にて卒去した。葬儀の後、家臣7名が殉死(追腹)している。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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