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出典検索?: "松平忠和" 島原藩主
凡例松平 忠和
松平忠和
時代江戸時代後期 - 大正時代
生誕嘉永4年2月12日(1851年3月14日)
死没大正6年(1917年)6月8日
改名余六麿(幼名)、昭嗣(初名)、忠和
戒名信竜院殿潜山源英大居士
墓所愛知県額田郡幸田町深溝の本光寺
官位従五位下・主殿頭
幕府江戸幕府
主君徳川家茂、慶喜、明治天皇
藩肥前島原藩主
氏族水戸徳川家、深溝松平家
父母徳川斉昭、高丘永季娘徳子
松平忠愛
兄弟賢姫、祝姫、徳川慶篤、松姫、
徳川慶喜、池田慶徳、池田茂政、直侯、
八代姫、武聰、喜連川縄氏、昭訓、
徳川貞子、忠和、土屋挙直、愛子、
徳川昭武、喜徳、頼之、正姫ら22男15女
妻酒井忠発娘錦子、藪実方娘中山文子
安、服、田鶴子
子忠威、千家尊紀室
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松平 忠和(まつだいら ただかず)は、江戸時代後期の大名。肥前国島原藩第8代(最後)の藩主。江戸幕府の15代将軍・徳川慶喜の異母弟。深溝松平家18代当主。維新後は知藩事、子爵。 嘉永4年(1851年)2月12日、常陸国水戸藩9代藩主・徳川斉昭の十六男として誕生した。幼名は余六麿、初名は昭嗣(あきつぐ)。文久2年(1862年)に7代藩主・松平忠愛が嗣子無くして急死したため、喪を秘して急遽末期養子となって家督を継いだ。12月16日に従五位下・主殿頭に叙位・任官する。 文久3年(1863年)には海防強化の必要性から軍制改革を行なうが、佐賀藩や薩摩藩のような洋式軍制ではなく、時代遅れの軍制であった。忠和は慶喜の弟だったことから、元治元年(1864年)には第一次長州征討に幕府方として参加し、慶応2年(1866年)の第二次長州征討にも参加した。 ところが、忠和の佐幕的な行動は尊王攘夷派である下級武士の不満を招き、一部の過激な尊攘派藩士が脱藩して天誅組の変や天狗党の乱に参加したりした。慶応元年(1865年)8月13日には伊東虎之助
生涯
慶応4年(1868年)1月からの戊辰戦争では新政府に恭順し、秋田藩や盛岡藩、雫石などに出兵している。明治2年(1869年)6月の版籍奉還で島原藩知事に任命され、明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県で知藩事を免官されて、東京へ移った。同年11月、明治政府から欧米視察の許可を得る。明治6年(1873年)10月、イギリスから帰国する。帰国後、しばらくすると家政に問題が生じた。忠和の放蕩などによる家計の窮乏に旧家臣団の派閥対立も加わり、混乱は大きくなった。水戸家の甥徳川篤敬らが家政の相談役になることによって、事態は収拾された。