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凡例松平 忠告
時代江戸時代中期 - 後期
生誕寛保2年5月26日(1742年6月28日)
死没文化2年12月10日(1806年1月29日)
改名忠昆(ただすえ)[1]→忠告
別名戌千代、与一[1]
俳号:亀文、一桜井
神号源忠告朝臣命[注釈 1]
戒名泰安院亨誉健順道長[3]
墓所東京都江東区の霊巌寺[3]
官位従五位下大膳亮、遠江守
幕府江戸幕府
主君徳川家治→家斉
藩摂津尼崎藩主
氏族桜井松平家
父母父:松平忠名、母:宗義誠の娘
兄弟加藤明堯、忠告、土井利厚、脇坂安弘正室、水野勝起正室、五百姫ら
養兄弟:菅沼定用娘
妻正室:松平光雄の娘・吉
継室:松平忠恕の娘
側室:万木氏、田中氏
子忠宝、菅沼定賢、忠得、忠進、平岡頼暢、忠栄、相馬祥胤正室、峻章院、加藤明允正室、本多忠升正室、於鏡の方
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松平 忠告(まつだいら ただつぐ)は、江戸時代中期から後期にかけての大名。摂津国尼崎藩第3代藩主。桜井松平家12代当主。俳人としても知られ[4]、俳号として一桜井(いちおうせい)・亀文(きぶん)を称している[5][注釈 2]。 寛保2年(1742年)5月26日[7][注釈 3]、尼崎藩2代藩主・松平忠名の三男として生まれる。長兄は早世しており、次兄は庶出であった(のちに養子に出され、近江国水口藩主加藤明堯となる)。 宝暦元年(1751年)4月19日、忠告が嫡子と定められた[1][7]。宝暦7年(1757年)4月1日に16歳で将軍徳川家重に御目見し、同年12月18日に従五位下大膳亮に任官した[1]。 明和3年(1766年)12月に父が死去し[1]、明和4年(1767年)2月20日に相続が認められた[1]。翌21日、桜井松平家当主が称する遠江守に遷る[1]。同年6月22日、領国入りのための暇を賜う[1]。 明和6年(1769年)2月13日、摂津国武庫郡・菟原郡・八部郡にまたがる知行地(武庫郡今津村から八部郡兵庫津までの浜手24か村[8])が幕府に召し上げられ[注釈 4]、赤穂郡・多可郡・宍粟郡内に替地が与えられた[1]。
生涯