「松平忠倫」、「松平忠倫 (戦国時代)」、あるいは「松平忠和 (桑名藩主)」とは別人です。
凡例松平忠倶
時代江戸時代前期
生誕寛永11年(1634年)
死没元禄9年5月26日(1696年6月25日)
改名忠政→忠樹(ただむら)→忠親→忠倶[1][2]
別名万助[1](幼名)
神号美織阿夜多良志毘古命[注釈 1]
戒名深正院然誉浄梵道恵[1]
墓所長野県飯山市奈良沢の忠恩寺
官位従五位下・遠江守[1]
幕府江戸幕府
主君徳川家光→家綱→綱吉
藩遠江掛川藩主→信濃飯山藩主
氏族桜井松平家
父母父:松平忠重、母:木下延俊の娘
兄弟忠倶、織田信勝正室
妻松平定行養女
子忠継、田中主殿
松平 忠倶(まつだいら ただとも)は、江戸時代前期の大名。遠江国掛川藩の第2代藩主、後に信濃国飯山藩の初代藩主。桜井松平家9代。官位は従五位下・遠江守。 寛永11年(1634年)、掛川藩主・松平忠重の長男として誕生した[1]。 寛永16年(1639年)2月12日、6歳の時に父が死去した[1]。3月3日付けで家督を継ぐことが認められたが[1]、幼少であったために[2]即日信濃国飯山藩への移封を命じられた[1]。将軍徳川家光への拝謁はこれよりも遅れ、7月9日となった[1]。帝鑑間伺候という席次は、以後桜井松平家の例となった[1]。 正保3年(1646年)12月、従五位下・遠江守に叙位・任官する[1]。万治元年(1658年)から大坂加番に任じられ、その後も要職を歴任した。 藩主として初めて領国に入ったのは承応2年(1653年)のことであった[1]。寛文4年(1664年)に領知朱印状を下される[1]。藩政においては播磨国出身の野田喜左衛門
略歴
天和2年(1682年)には越後高田領[注釈 3]の検地業務に当たった[1]。元禄8年(1695年)3月に4回目の大坂加番に任じられて任地に赴いたが病に倒れ、元禄9年(1696年)5月26日に大坂で病死した[1]。享年63[1]。
嫡男の忠継は病によって元禄7年(1694年)に廃嫡し[6]、忠継の長男である忠敏を後継者とした[6]。しかしその忠敏も間もなく早世したため[6]、忠敏の弟にあたる忠喬が跡を継いだ。 特記事項のない限り、『寛政重修諸家譜』による[7]。子の続柄の後に記した ( ) 内の数字は、『寛政譜』の記載順。
系譜
父:松平忠重
母:木下延俊娘
正室:松平定行養女 - 阿部重次の娘
長男(1):松平忠継(母は正室松平定行養女)
生母不明の子女
二男(2):八郎 - 早世
三男(3):小次郎 - 早世
養子女
養女(4):実父は織田信勝、実母は不詳[8] - 水野重上(紀州藩家老)の妻
養女(5):実父は織田信勝、実母は不詳[8] - 喜連川昭氏室
養女(6):実父は水野良安(=重上)、実母は不詳[9] - 田中定賢
補足
二男も三男も「母は某氏」と記される。三男の記載に、二男と同母であることを示す「母は上に同じ」とは記されていない[6]。
養女のうち2人の実父である織田信勝(丹波柏原藩主)は、忠倶の姉の夫である。
『寛政譜』には、養女の1人は「水野土佐守重上」に嫁いだと記され、養女の1人は「水野土佐守良安」の娘と記されているが[6]、重上と良安は同一人物(重上の初名が良安)である[9]。
脚注[脚注の使い方]
注釈^ うまおりあやたらしひこのみこと。桜井神社(兵庫県尼崎市)の祭神として追贈された神号[3]。
^ 忠倶が大坂加番を務めた際、喜左衛門を知って飯山藩に招聘した。喜左衛門は川除普請奉行を約30年にわたって務め、領内に12本の用水を開削、新田開発に道を開いた[5]。
^ 延宝9年/天和元年(1681年)、越後騒動によって高田藩主松平光長が改易された。
出典^ a b c d e f g h i j k l m n o p 『寛政重修諸家譜』巻第五、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.28。