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凡例松平宣富
時代江戸時代前期 - 中期
生誕延宝8年10月9日(1680年11月29日)
死没享保6年2月7日(1721年3月4日)
改名源之助(幼名)、矩栄(初名)、長矩、宣富
別名采女(通称)
墓所岡山県津山市西寺町の泰安寺
官位従四位下越後守、左近衛権少将、左衛門督備前守
幕府江戸幕府
主君徳川綱吉→家宣→家継→吉宗
藩美作津山藩主
氏族越前松平家(前橋家→越後家→津山家)
父母父:松平直矩
養父:松平光長
兄弟基知、宣富、知清、本多忠貞、
堀田正親正室ら
妻佐竹義処娘岩、櫛笥隆賀養女
子浅五郎、松平信将継室、織田信朝正室、
園池房季室、毛利元朝婚約者
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松平 宣富(まつだいら のぶとみ)は、江戸時代前期から中期にかけての大名。美作津山藩初代藩主。津山松平家の祖。 延宝8年(1680年)10月9日、陸奥白河藩主松平直矩の三男として誕生。元服して矩栄と名乗る。元禄6年(1694年)に元越後高田藩主松平光長の養嗣子となって長矩へ改めた。 元禄10年(1697年)に養父が隠居すると越後守を称することを許された。翌11年1月14日には長矩に対し、美作のうちで10万石が与えられた。津山城を与えられ、美作の大部分を領した長矩は津山藩を立藩し、国持大名(準国主)として幕府から遇された。津山松平家の始まりである。元禄12年(1699年)12月25日に左近衛権少将に任じられ、元禄16年には出羽久保田藩主佐竹義処の娘を正室に迎えた。 実家である直矩由来の家臣、養父光長の家臣はもとより、以前の津山の旧領主森家(森衆利)の遺臣など、人材を江戸や京都にても求め、積極的に登用し、藩の運営を始めるが、同年、年貢を高く設定した[注 1]ために農民一揆(高倉騒動
生涯
立藩直後の元禄11年(1698年)9月、江戸で起こった勅額火事により、光長に与えられていた柳原の上屋敷と幕府より預かったばかりの本所の下屋敷の両所を全消失した。代わりに江戸城至近の鍛冶橋付近に藩邸用地7000坪[注 2]と金1万両を与えられ、江戸上屋敷を再建した。この屋敷も宝永2年(1705年)に類焼している。この両火災は立ち上げたばかりの藩財政に負担となった。
6代将軍・徳川家宣の偏諱を賜って宣富へ改める。享保6年(1721年)2月7日に死去。享年42。跡を長男・浅五郎が継いだ。
系譜
父:松平直矩(1642-1695)
母:不詳
養父:松平光長(1616-1707)
正室:岩 - 佐竹義処の娘
継室:櫛笥隆賀の養女 - 園池実尚の娘
長男:松平浅五郎(1716-1726)
生母不明の子女
女子:松平信将継室
五女:織田信朝正室
女子:園池房季室
女子:毛利元朝婚約者
注釈^ 森家改易ののち、1年余り幕府領であったため、税率が比較的低く抑えられていた。
^ 複数の大名家屋敷を移転させて確保されたこの藩邸用地は、のちに1万2千坪にまで拡大する。
関連項目
青松寺 - 東京都港区愛宕の寺院。足軽の芦田義勝(槍持勘助)の墓所。
津山まつり
表
話
編
歴
松平家津山藩初代藩主 (1698年 - 1721年)
森家
森忠政1603-1634
森長継1634-1674
森長武1674-1686
森長成1686-1697
森衆利1697
衆利の幕政批判により、改易。森氏は長継が備中西江原藩に再勤、存続
津山松平家
松平宣富1698-1721
松平浅五郎1721-1726
松平長煕1726-1735
松平長孝1735-1762
松平康哉1762-1794
松平康乂1794-1805
松平斉孝1805-1831
松平斉民1831-1855
松平慶倫1855-1871
廃藩置県