松平定信
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松平定陳」とは別人です。

 凡例松平 定信
松平定信自画像
鎮国守国神社所蔵 天明7年(1787年)6月[* 1]
時代江戸時代中期 - 後期
生誕宝暦8年12月27日1759年1月25日
死没文政12年5月13日1829年6月14日
改名徳川賢丸(幼名)、松平定信
別名楽翁、花月翁、風月翁(号)、
白河楽翁、たそがれの少将
諡号守国公
神号守国大明神
戒名守国院殿崇蓮社天誉保徳楽翁大居士
墓所東京都江東区白河霊巌寺
官位従五位下上総介越中守従四位下侍従左近衛権少将正三位[1]
幕府江戸幕府老中首座・将軍輔佐
主君徳川家斉
陸奥白河藩
氏族田安徳川家久松松平家[* 2]定勝
父母徳川宗武:山村氏の娘・香詮院
養母近衛通子
養父松平定邦
兄弟誠姫、裕姫、淑姫、小次郎、銕之助、友菊、仲姫、乙菊、徳川治察、節姫、脩姫、定国、定信、種姫、定姫
正室松平定邦の娘
継室加藤泰武の娘・隼姫
側室:貞順院
定永真田幸貫、福姫、清昌院、保寿院、寿姫、蓁、松平輝健正室
養女松平信志正室、宝琳院
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松平 定信(まつだいら さだのぶ、宝暦8年12月27日1759年1月25日〉- 文政12年5月13日1829年6月14日〉)は、江戸時代中期の大名老中陸奥国白河藩の第3代藩主定綱系久松松平家9代当主。江戸幕府8代将軍徳川吉宗の孫。老中であった1787年から1793年まで寛政の改革を行った。定信は前任の田沼意次の政策をことごとく覆したとされているが、近年では、寛政の改革による政治は、田沼時代のものと連続面があるとの指摘もされている[2]
生涯
出生

宝暦8年12月27日(単純な換算で宝暦8年は1758年になるが、グレゴリオ暦では既に新年を迎えており、1759年である)、御三卿田安徳川家の初代当主・徳川宗武の七男として生まれる。実際の生まれは12月26日の亥の半刻(午後10時ころ)であったが[3]、田安徳川家の系譜では27日とされ、また「田藩事実」では12月28日とされている。宝暦9年(1759年1月9日に幼名・賢丸【まさまる】と命名された[4]。生母は香詮院殿(山村氏・とや)で、生母の実家は尾張藩の家臣として木曾を支配しつつ、幕府から木曾にある福島関所を預かってきた。とやの祖父は山村家の分家で京都の公家である近衛家に仕える山村三安で、子の山村三演は采女と称して本家の厄介となった。とやは三演の娘で、本家の山村良啓の養女となる。宗武の正室は近衛家の出身であるため、とやも田安徳川家に仕えて宗武の寵愛を受けた[5]。定信は側室の子(庶子)であったが、宗武の男子は長男から四男までが早世し、正室の五男である徳川治察が嫡子になっていたため、同母兄の六男・松平定国と1歳年下の定信は後に正室である御簾中近衛氏(宝蓮院殿)が養母となった[6]

宝暦12年(1762年2月12日、田安屋敷が焼失したため、江戸城本丸に一時居住する事を許された。宝暦13年(1763年)、6歳のときに病にかかり危篤状態となったが、治療により一命を取り留めた。しかし定信は幼少期は多病だった[4]
将軍候補

幼少期より聡明で知られており、田安家を継いだ兄の治察が病弱かつ凡庸だったため、一時期は田安家の後継者、そしていずれは第10代将軍・徳川家治の後継と目されていたとされる。

17歳の頃、陸奥白河藩第2代藩主・松平定邦の養子となることが決まった。兄の治察は自身にまだ子がなかったので、これを望まなかったが将軍家治の命により決定される。これは、寛政2年(1790年)に一橋治済が尾張家、水戸家の当主に語ったところによると、松平定邦が溜詰への家格の上昇を目論み、田沼意次の助力により田安家の反対を押し切って定信を白河松平家の養子に迎えたという[7]

白河藩の養子になった後もしばらくは田安屋敷で居住しており、同年9月8日(実際は8月28日)の治察の死去により田安家の後継が不在となったおりに養子の解消を願い出たが許されず、田安家は十数年にわたり当主不在となった。定信の自伝「宇下人言」によると治察臨終の際、父徳川宗武の正室宝蓮院は御側御用取次の稲葉正明から定信が田安家を相続する話を取り付けていたが、後に田沼意次らが約束を破ったと書いている[7]

家督相続後、定信は養父の意思に従い、田沼に賄賂を贈るなど幕閣に家格上昇を積極的に働きかける。ただし、実現したのは老中を解任された後であった。
天明の大飢饉詳細は「天明の打ちこわし」を参照

天明3年(1783年)から天明7年にかけて大飢饉がおこり、特に天明3年は東北地方の被害が甚大であった。これは前年の天明2年に西国の凶作によって江戸の米価が急騰したため、江戸に米を売れば大きな儲けになったために備蓄まで売り払ったためであった。東北地方一帯は平年作であり、東北諸藩や商人達は、米を次々と江戸に向けて売り出してしまっていた。翌、天明3年は東北は春先から天候不順であり、さらに夏になると冷害の被害による凶作が予想される状況だった。しかし、凶作が予想されたにもかかわらず東北諸藩は江戸への廻米を行ない続け、庶民は江戸への廻米に反対し米の買占めを図った御用商人への打ちこわしを起こす事態となった。津軽藩では「江戸への廻米の中止」と「米の安売」を要求して、同3年7月各所で打ちこわしが起こったが、民衆の反抗を押え込んで江戸廻米は強行され飢饉の被害を増大させた。同様に弘前藩などの多くの藩が江戸や大坂への回米を強行し民衆による打ちこわしを起こしている。

さらに幕府からの援助もほとんど受けることができず被害は拡大した。幕府領での不作によって年貢収納は激減している為として、非常時の援助金である拝借金をほとんど認めなかった。天明3,4年の飢饉における拝借金は、6大名1万9000両余りに過ぎず、吉宗時代、享保の大飢饉の際の総計33万9140両の金額と大きな差があった。また、享保の大飢饉の際は、凶作となった西国を救うべく幕府は27万5525石もの米を輸送したが、天明の大飢饉の際、幕府は東北に対しまったく米を送ることはなかった。その理由は、当時、飢饉に対し蓄えておくはずの城米・郷倉米が「役に立たない」という理由で備蓄の規模が大きく縮小するなどと飢饉に対する備えを放棄していたからだった。江戸浅草の御蔵の米備蓄も既に廃止されていた。

そのため、東北諸藩からの飢餓輸出を受けていたにもかかわらず江戸の米価急騰は止まらなかったために、東北へ救援を送るどころか、むしろ江戸に米を掻き集める政策を行った。幕府は全国の城に蓄えた城米を江戸に廻送させた。天明3年に江戸に廻送された城米は37城11万3864石余りに及ぶ。また、時限立法として短期限定で江戸への自由な米の持込と販売を許可するなどして江戸への米の流入を促そうとした。さらに天明4年4月、幕府は全国を対象として、村役人や農民が所持している自家用以外の米の販売・買占めを行う者がいれば領主に申し出ることなどといった買占め禁止の令を発すると同時に、諸藩が江戸への回米を行う際に道中で米の売買を行うことを禁止し、江戸に入る米の量を確保するといった一見矛盾ともいえる法令を出している。


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